3.魔法昆虫
「はてさて、いったいどの虫が逃げ出したんだろうか」倉又館長はあごに手を当てながら、部屋中をうろうろと歩き回る。
「マユを見てもわからないんですか?」美奈子が聞いてみた。
「これはしたり! そうだった、そうだった。マユには1つずつ、魔法文字が描かれておるんだった!」そう言うと、百虫樹の元へと駆け寄る。「ふむふむ、ほかの4つは調べなければわからないが、1つだけわかる文字がある。ペッカルト・トラリム・サンテクスだな。こいつはまあ、さほどひどいことにもなるまいて」
「なあに、そのペッカルトなんとかって?」美奈子は聞いた。
「ああ、古代魔法語で、『岩のように重い甲虫』という意味だな。ゾウムシモドキとも呼ばれている。とにかく重いのだよ。それだけのことだがね」
「なら、楽勝ね。重いっていったって、ただの虫だもん。そこらに転がっている石みたいなもんでしょ。居場所さえわかれば、すぐに捕まえるわ」美奈子は気軽に請け負う。
「で、その子はいったい誰かね?」美奈子の後ろに隠れている男の子を覗き込みながら、館長が言った。
「最後の願いで現れた、わたしの『弟』よ」と美奈子。
「弟だって? なんてこった! どこからか呼び出されたに違いない」館長は仰天した。
「そんなの知らないわ。ただ、『弟が欲しい』って願っただけだもん」
「何もないところから人間の子どもが出てくるわけがなかろう。きっと、どこからか連れてきてしまったのだ。今頃は、この子の親が心配しているぞ!」
言われてみて、美奈子は急に心配になった。この男の子は、どこからやって来たのだろう。
「ねえ、あなたのいたところってどんなところだった?」美奈子は尋ねた。
「えーとね、タンポポのお花が1年中咲いているの」
ラブタームーラは魔法で満ちあふれているが、1年中花が咲いている場所はさすがにない。
「じゃあ、名前は? おうちの電話番号は言える?」
男の子は黙って首を振るばかり。百虫樹の魔法の影響で、すっかり忘れてしまったのだろうか。
とりあえず、家へ連れて帰るしかない。ほかに行くところがないのだから。
男の子を見て、美奈子の母がまず驚いた。
「あんた、その子どこの子? なんで、うちに連れてきたの?」
そこで、美奈子は博物館で起こったことをこと細かに説明した。
「そう、その魔法昆虫とかをあんたが捕まえないかぎり、この子は元の世界へは帰れないわけね」母はゆっくりとうなずくと、「わかったわ。親戚の子を預かっているってことにして、しばらくうちで面倒を見ましょう」
夕方、父も仕事から帰ってきて、母から男の子のことを聞かされた。
「ずっといてもいいんだがなあ」のんきにそう言う。「うちでも、そろそろ弟か妹が欲しいと思ってたんだよ。美奈子、お前はお姉さんらしく優しくしてやらなきゃだめだぞ」
こうして、男の子は美奈子の家に住むこととなった。
「名前、そう言えば聞いてなかったわね」母が言う。美奈子だって知らなかった。それどころか、本人にもわからないのだ。
「この子、自分の名前がわからないんだって」と美奈子。
「名前がないんじゃ不便だなあ」父が考え込む。「そうだなあ、いまは春だし、木々も芽吹いている。緑って呼んではどうかな」
誰も反対するものもなかったので、そのまま命名された。
「あなた、今日から鈴木緑よ。いい?」美奈子は男の子に言い聞かせる。
「うん、ぼくの名前は緑。なんだかまるで、ふんわり暖かい風に吹かれているような、そんな気がする」どうやら、満足してくれたようだった。
とにかくよく笑う子どもだった。おかげで夕食がいつも以上に賑やかに、そして明るくなった。
「魔法昆虫なんか見つからず、このままうちの子になっちゃえばいいのに」美奈子は心の中で、そっとつぶやいた。
翌日は日曜日。美奈子は、緑を連れて中央公園へとやって来た。
「ほら、見てごらん、緑。」美奈子は森の真ん中に立つ銀色の塔を指差す。「あれってね、ずっと昔からあそこにあるんだって。夜になると、てっぺんが光るから、町の灯台かもしれないって言われてるけど、誰にも本当のことはわからないのよ。ただ、『見晴らしの塔』とだけ呼ばれてるわ」
「登れないの?」緑が聞いた。
「登るですって? だって、どこにも入り口なんかないのよ」
「ぼく、あの一番上まで登ってみたいなぁ」
「99メートルもあるんだって。梯子をかければ、途中までは登れるでしょうけど、てっぺんまでなんか絶体に無理だわ」
「でもね、お姉ちゃん。いつかあの中に入れるような気がするの」緑は夢見るような瞳で、見晴らしの塔をじっと見上げるのだった。
中央公園はとても広い。噴水広場があり、森があり、たくさんの遊具設置されていた。
美奈子は、小さな男の子ならすべり台やジャングルジムが好きだろうと思い、遊具広場へと連れて行くことにした。
プラタナスの林を通りかかると、地べたの上をおかしな跡が続いているのに気付く。
「何かしら? 向こうからずっと続いている」
小さなものを引きずってできたような線だ。相当重いらしく、10センチほどの溝になっている。
美奈子は興味を持ち、しばらくその跡をたどってみることにした。
30メートルは追ったであろうか、ふいに途切れてしまう。その先は1本のプラタナスが立っていて、根元で何かもぞもぞと動いていた。
「お姉ちゃん、これって虫?」緑がしゃがみ込んで覗く。
「どれどれ……」カブトムシくらいの灰色をした生き物だった。脚が6本あり、つやつやと滑らかな光沢を放つ甲殻に覆われている。間違いなく昆虫だった。
「でも、昆虫にしては見たことがないものだわ。鼻が長くて、まるで小さなゾウね」
「これ、持って帰ってもいい?」緑が聞く。
「刺したりはしないようだし、うちで飼ってみようか」
美奈子は昆虫をつまみ上げた――いや、そうしようとした。
ところが、木の根っ子のようにびくともしない。
「どうしたのお姉ちゃん?」不思議そうに見上げる緑。
「それがさ、なんだかやたらと重いの。もう1度やってみるわ」今度は両手を添えて、えいっと踏ん張った。それなのに、うんともすんともいわない。
そこへ、たまたま浩と元之がやってきた。
「おっ、美奈子じゃねえか。ここで何やってんだよ?」浩がいつものふざけた調子で声をかけてくる。
「ちょっと、浩。あんたも手伝ってよ。すっごく重い昆虫がいるの」
「重い昆虫だって?」どれどれ、というようにやって来る浩。「なんだ、ただのゾウムシじゃねえか。こんなの、ひょいっとだな――」
ひょいどころか、顔を真っ赤にして力んでもも持ち上がらない。
「ね、言ったでしょ?」そのとき、館長が話していたことを思い出した。ペッカルト・トラリム・サンテクス――岩のように重い甲虫。
まさか、これがその魔法昆虫?
「浩、博物館へ行って、いますぐ網とカゴを持ってきて!」美奈子は叫んだ。
「えー、なんでおれが……」
「そもそも、こうなったのはあんたのせいなんだからねっ!」つい癇癪を起こしてしまう。
博物館で浩に出くわしそうになり、うっかり隠れた部屋の中にあった百虫樹。その虫の1匹がこれなのだ。
浩が何かしたわけではない。それは美奈子にもわかっていたが、理屈よりももやもやとした感情に抗うことはできなかった。
美奈子の剣幕に、さすがの浩も、ここは逆らうところではないと察する。「わかった」一言だけつぶやくと、博物館へと走って行った。
「いったい、どういうことなんですか?」元之が尋ねる。そこで、美奈子はこれまでのあらましを話した。「なるほど、そんなことが。運良く、1匹目を見つけられた、というわけですね」
「まあね。ああ、これでこの子ともお別れかぁ」せっかくできたた弟と別れるのはつらいが、緑のためにはこれでよかったのだ。
「借りてきたぞー」浩が息せき切って駆けてきた。右手には網、左手には虫かごをぶら下げている。
「さっさとその虫を捕まえてよ」美奈子はせかした。浩はぶつぶつと文句を言いながらも、言う通りゾウムシモドキに網をかぶせる。
網の中でもがくゾウムシモドキ。けれど、やはり持ち上げることはできなかった。
「なんだよ、全然ダメじゃねえか!」浩は美奈子に向かって文句を言う。
「そんなはずはないわ。だって、これ魔法の網なのよ」
「だったら、お前がやってみろよ」浩は網を美奈子に突き出す。
美奈子は網を構えると、ゾウムシモドキをサッとすくって見せた。
「ほーら、採れた! 早くカゴをちょうだい。中に入れちゃうから」
「ふうむ、浩にできなくて、なぜ美奈ちゃんに捕まえられたんだろう」元之は腕を組んで考え込んだ。
またしても美奈子は思い出す。そうだった、逃がした本人にしか捕まえられないんだったっけ。
「どうやら、あたしにしかこの網は使えないみたい。だって、逃がしちゃったのは、このあたしだもん」
どんなに持ち上げようとしてもびくともしなかったゾウムシモドキが、綿のように軽い。これこそが魔法のカゴの力に違いなかった。
「いったい、何がどうなってるんだ。誰か説明してくれよ」浩が文句を言う。
「わたしが説明しましょう」元之が、さっき美奈子から聞いた話をまとめて、浩に言い聞かせた。
「そうだったんだ。すると、まだあと4匹もいるってことか。こいつは面白いことになったぜ。なあ、美奈子。おれも仲間に入れてくれよ。虫探しに協力すっからよ」
美奈子は初め、どうしようかなと考えた。大嫌いな浩なんかと一緒に行動したくなかった。
けれど、ラブタームーラの町は広い。そこに4匹も昆虫が逃げ出したのだ。正直なところ、ネコの手も借りたかった。
しばらく悩んだ末、仲間に入ることを承諾する。
「いいわ。もし見つけたら、すぐあたしに教えてちょうだい」
「おうっ、まかせとけって」浩は請け合った。
「わたしも探すのを手伝いますよ。魔法昆虫について、もっと知りたくなりました」
4人は博物館へと取って返した。
「おおっ、よく見つけてきたね」館長は手を叩いて喜ぶ。「あのあと、古い文献で色々と調べてみたんだよ。ペッカルト・トラリム・サンテクス、つまりゾウムシモドキは、わずか10センチの体長ながら、その重さはなんと、300キロもあるという。まあ、ただ這いずり回るだけの昆虫だがね、それでも大事に至らなくてよかった、よかった」
300キロですって?! 美奈子はたまげた。そんなものを素手で持ち上げようとしていたなんて!
館長はカゴを丁寧に運ぶと、百虫樹の元へと持っていきマユに近づける。
ポーン! と音がしてカゴの中の昆虫は消え、マユは元の真ん丸に戻っていた。
「よしっ、これで大丈夫だ。まずは1匹戻したぞ」
「でも、あと4匹もいるんですよね」溜め息をつきながら美奈子は言った。
「うむ、それらもいま調査中でな。なんせ古い文字だから、どんな昆虫なのか皆目見当がつかん。わかったら、また報せるからね。それから、その網とカゴだが、そのまま持っていてもらってかまわんよ。どうせ、それが使えるのは、君だけなんだからな」
なんとか1匹は捕まえることができた。しかし、緑は消えもせず、未だここに残っている。
「緑は――この子、緑って名前にしたんですけど、彼はどうして元の世界へ戻らないんですか?」ほっとしながらも、不思議に思う美奈子。
「それはだ、君が願いをかけたのはこの昆虫ではなかったからだな。その昆虫を捕まえて、マユに封印するまでは、その子もこちらの世界に居続けることになる」
そうだったわ。それぞれのマユに色々な願いを込めたんだった、と美奈子は気付いた。
昆虫を1匹捕まえるたび、かけた願いはなかったことになる。ジュースを飲まなかったことになったのだろうか、それともシュークリームを食べなかったことになったのか。
緑の件以外は、美奈子本人にももう、わからないことだった。