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カゼをひいて寝込む
夕べは、借りてきたDVDを観ているうちに、そのままコタツで眠ってしまったようだ。目を醒ますと、喉ががらがらする。
「カゼひいたかな」そうつぶやく声もしわがれて、なんだか自分がしゃべっているんじゃないようだ。
額に手を当ててみる。少し熱っぽい。
午後になるとさらに熱は上がり、咳が出てきた。どうやら、本当にカゼらしい。
薬を飲んで、ベッドに入る。うつらうつらとするが、なかなか眠れなかった。体がだるいせいかもしれない。
天井を眺めてぼーっとしているうち、幼稚園の頃に罹った「ユーレイはしか」を思い出していた。
ユーレイはしかは、子どもが罹る通過儀礼のような伝染病だ。カゼに似た兆候が現れ、まず発熱する。やがて全身にブツブツが広がり、 熱と咳が2、3日ほど続く。
苦しいのと、寝てばかりで退屈なのとで、根を上げたものだ。
もっとも、ふだんは決して聞いてもらえないようなわがままが通るため、ここぞとばかりにおねだりをすることを忘れなかった。
「ママぁ、模様のついたメロンが食べたい……」
「はいはい、マスク・メロンね。あとで買ってきてあげるから、頑張って元気になろうねえ」
熱と発疹は、あるときを境にすうっと引いてしまう。けれど、まだ病気が治まったわけではない。
手足の指先から、次第に色が抜けていくのである。半日もしないうちに、全身がクラゲのような半透明となってしまう。
その姿がまるで幽霊のようなので、「ユーレイはしか」と呼ばれていた。
「あれは面白かったなぁ。暗がりから、ひょこっと顔を出しただけで、大人さえ腰を抜かして驚いたっけ」思い出すだけで笑いが込み上げてくる。
ユーレイ状態の段階まで進めば、もう感染の心配はなかった。そもそも、本人が元気いっぱいなのだから、家にこもってじっとしている理由などない。
遊び疲れて家に戻る途中、通りを向こうからやって来る人に気づく。
「あ、いつも行く肉屋のおじさんだ」わたしはとっさに電柱の陰に身を潜めた。母と一緒に買い物へ行くと、決まって説教をされる。
「おうちの手伝いはちゃんとやらなきゃダメだぞ。おじさんなんてな、お前さんくらいの頃には、もう肉の扱い方を父親から教わってたもんだ」
母までも同調して、「そうよ、むぅにぃ。今日からでも、お皿洗い、やってもらおうかしらね」などと言い出すので、内心、嫌でたまらなかった。
肉屋のおじさんは、機嫌よく鼻歌を歌っていた。辺りはもう薄暗かったし、電柱は十分、隠れられる幅がある。
わたしは、おじさんの歩調に合わせて、裏側へ、裏側へと後ずさりをした。どうか、このまま行き過ぎてくれますように。顔を合わせれば、きっとまた小言を言われるに違いなかった。
「ふんふーん、にくにくにーくっ、にーくぅ、だいすきぃ~っとくらぁっ」
通り過ぎる肉屋。わたしはほっと、息をついた。
ところが、なぜかまた引き返してくる。
「ちょっと、冷えたかな……」そうつぶやくと、辺りをきょろきょろと見回しながら電柱に寄ってきた。
このままだと、まずいことが起こりそうな気がしたので、観念して顔を出す。そのわたしを見たときの、おじさんときたらっ!
「ひっ、ひいっ! 出たーっ、お化けだっ!」少女のように高い声で、助けてくれーっと叫びながら逃げていった。
一瞬、何がなんだかわからず立ちすくむ。
「あ、そうか。いま、ユーレイはしかに罹っていて、顔が透けてるんだった」ようやく合点した。
おじさんの慌てふためいた様子がふいに蘇ってきて、もうおかしくって、おかしくって。道の真ん中で、一人笑い転げる。
「夕暮れになると、ケラケラと笑う子どもの幽霊が出るんだそうだ」そんな噂が町に根付いたのは、ちょうどこの頃だった。
掛け布団から手を出して、じっと見つめる。
「まさかね……」いまにも手のひらが透けていくのではないか、そう思ったのだ。「ユーレイはしかは子どもしか罹らないんだから。それも、一生の間に、たった1回だけ」
あのときのユーレイはしかは2日で完治し、再び体の色を取り戻した。ほっとすると同時に、ちょっぴり残念に思ったものだ。
1週間くらいは半透明のままでもよかったのになぁ。
玄関でチャイムが鳴る。
「おう、おれだ。入るぞ」少しかすれているが、桑田孝夫の声だ。
「いらっしゃい。カゼひいちゃってさあ、うつすといけないから、あんまり近づかないでね」仰向けのまま、そう返事をする。
「大丈夫だ。おれもカゼひいてっから」
その顔はまるで、ユーレイのように透き通っていた。