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神田川にシロナガスクジラが現れる
お茶の水の喫茶店でチーズ・ケーキを食べ、ブレンドを飲み終わったところだ。このまま帰ってしまうのがもの足りず、辺りをふらっと歩いてみることにした。
聖橋に差しかかると、人が大勢集まり、何やら騒いでいる。
「どうかしたんですか?」近くにいた人をつかまえて聞いた。
「シロナガスクジラが迷い込んできたんだよ」
橋の下を見ると、なるほど、波間でぷかぷかと揺れているのはシロナガスクジラに違いない。頭をこちらに向けていて、しっぽはおそらく万世橋の辺りで川面を打ちつけているはずだ。大きいとは聞いていたが、目の当たりにするとまるで化け物だ。
「誰か、エイブラハム船長を呼んでこいっ」そう叫ぶ者があった。
「船長なら、神保町で脂の乗った生ハムを喰らいすぎて、今頃はぐっすりと眠っちまってるさ」別の声が応える。
「とっとと起こしてきやがれっ!」罵声が飛ぶ。
「そいつは無理だ。眠っちまった船長は、氷山のように起きやしねえ。ひとりでに目が醒めるのを待つしかねえぜ」
それにしても、どこから入ってきたのだろう。ここから海に近いといえば、東京湾だ。隅田川を泳ぎ、両国から神田川へと侵入してきたというのか。
これだけの巨体だ。途中で引っ掛かるか、誰かに発見されるかしなかったのだろうか。
男が息せき切って、ばたばたと駆けてきた。見るからに人のよさそうな青年だ。
「こちらでシロナガスクジラが見つかったって聞いたもんで、急いでやって来ました」青年は、ぜえぜえと喘ぎながら言う。
「おうっ、聖橋から下をのぞいてみな。まだそこにいるぜ」
「はぁはぁ……。あ~、いますねぇ。います、います」
「おめえさん、そんなに探すような真似をしなくたって、嫌でも目にへえるじゃねえか。それともなにかい、その顔についてるのは、節穴かい?」
青年は、観衆に向かいなおった。
「ぼくはですね、ふだんはこの近所でニートをしていて、『働いたら負けかな』とか思っている者ですが、今日ばかりは皆さんのお役に立てたらと思いまして、馳せ参じたというわけなんです」
「で、どうなんだ。何か策でもあるってのかい?」
「あります、あります」ポケットから食卓塩の小瓶を取り出す。「こいつで全て解決してみましょう」
「なんでぇ、なんでぇ。ただの塩じゃねえか。塩もみでも食うのかよ」
人々の野次には答えず、小瓶を橋の下にサッサッと振った。塩はシロナガスクジラの上に降り注がれ、見る見るうちに縮んでいく。
おおっ! と歓声が上がる。
「そうかっ、クジラに塩をかけりゃあ、おめえ、水分を吸われて縮んじまうっつう理屈だな! よく考えついたな、兄ちゃん。えらいっ、えらいぞっ!」
さっきまで馬鹿にしていた連中も、やんやとはやした。げんきんなものである。
シロナガスクジラは手の平に載るほど小さくなって、駆けつけた警官に引き渡された。湾に寄って、海へと帰されるという。
わたしはふと疑問に思い、青年に聞いてみる。
「海も塩水ですが、さらに縮んだりはしないんですか?」
彼は答えた。
「ええ、それは平気です。塩水と塩をじかに振るのとでは、訳が違いますから」
なるほどなぁ、とわたしは納得した。そういえば、スイカは塩水につけて食べたりはしないもんな。
神保町の方角から、眠気まなこのエイブラハム船長がのんきに歩いてくる。
「クジラはどこだあっ?」彼は大声で怒鳴った。
「おめえさんの出る幕はもうないよっ」
そう、誰かが怒鳴り返す。