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【随筆】【映画】【文学】悲しみの王

 ビクトル・エリセにはシナリオまで書き上げながら映画化に至らず、未完に終わった作品があるという。アルゼンチンを代表する作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899~1986)の短編「死とコンパス」(『伝奇集』所収)を原作としたもので、完成していたら一体どんな映画になっていたのか、大変興味深いところである。
 ただ、その痕跡らしきものは、今年公開された31年ぶりの新作長編「瞳をとじて」にもうかがわれる。劇中劇の映画「別れのまなざし」の舞台は「トリスト=ル=ロワ(Triste le Roi)=悲しみの王」と呼ばれるパリ郊外の広大な邸宅で、屋敷の主のユダヤ人富豪レヴィは、探偵の役回りの主人公フランクに対し、「短編小説から名前をとった」と意味深にほのめかしているが、それはまさに「死とコンパス」のクライマックスで、最後の殺人事件の現場となった別荘の名前でもある。

 「夢のなかのブエノスアイレスの出来事」という「死とコンパス」は、悪夢を思わせる探偵小説仕立ての逸品である。最初の殺人の舞台は河口近くにあるぱっとしないホテルの一室。ユダヤ教の律法学者が死体で発見される。事件を追う「恐るべき明敏な頭脳」の持ち主、探偵レンロット。やがて第二、第三の犯罪が起こり、事態はユダヤ教神秘主義・ハシディズムとの関連を匂わす、「連続殺人事件」の様相を呈してくる。事件はちょうど一か月おき、毎月三日に起こり、三つの現場はぴったり等距離、正三角形で結ばれていた。「ミステリーも水晶のように透明に近いものになった」――オーギュスト・デュパンばりの「純粋な理論家」レンロットは、自らの推理に溺れ、迷路に迷い込むかのように、「第四の現場」、黒いユーカリの木に囲まれた「トリスト=ル=ロワ」の無人の別荘におびき寄せられる……。
 「トリスト=ル=ロワ」を扇の要にして、「瞳をとじて」と「死とコンパス」の関係について考察を広げる――結論から言うと、いくら考えても私の頭脳ではよく分からなかった。しかし、どうせ「幻の映画脚本」にでも当たらない限り、確かなことは言えそうもないし、勝手に想像の翼を羽ばたかせる楽しみは許されるであろう。そもそも私はボルヘスについて詳しいわけでもないし、以下の雑考がせめて「知ったかぶり」になっていることを願う。

夕方と朝をいっしょに見てる、顔がふたつの、あのいやらしいヤヌスが、寝ても覚めてもおれを苦しめやがった。

「死とコンパス」

 「瞳をとじて」の冒頭に登場する双頭のヤヌス像は、「死とコンパス」のクライマックス、トリスト=ル=ロワの場面でも描かれている。そもそもヤヌスは物事の始まりや入口の神なのだから、映画のオープニングに登場するのは不思議でもないのだが、それ以上に、これから始まる物語全体の、何らかの象徴として受け取らざるを得ないほど印象的である。「死とコンパス」で瀕死の悪漢シャルラッハが目にしたヤヌスは「夕方と朝をいっしょに見てる」ようだが、「瞳をとじて」の文脈では、やはり「過去と未来を見る」ということになるのであろうか。
 主人公であるかつての映画監督ミゲルは自身の映画「別れのまなざし」に主演し、撮影中に失踪した親友フリオの行方を追う中で、自らの「過去」と向き合う。一方のフリオは記憶=「過去」を失っていた。作品は専ら登場人物らの「過去」に目を向け、「失われた時を見出す」ことを主題にしているようにも見える。再会を果たしたフリオと娘アナの関係はどうなるのか、そもそもフリオは記憶を取り戻したのかも明示されない。決してハッピーな物語ではないにもかかわらず、登場人物たちの前向きで対話的かつ行為的な姿勢からは、海を基調とした作品全体のトーンと相まって、向日性のオプティミズムすら感じられ、オープン・エンディング的に「未来」の光が垣間見えたような感想を持った。

エリック・レンロットはふたつを検討した。三つの現場は事実、等距離にあった。時間のシンメトリー(十二月三日、一月三日、二月三日)。同じく空間のシンメトリー……。

「死とコンパス」

近くから見ると、トリスト=ル=ロワの別荘の建物には、意味のないシンメトリーと偏執的な反復がやたら多かった。

「死とコンパス」

 いかにもボルヘス的な語彙、仕掛けである「シンメトリー」だが、「死とコンパス」ではことのほか強調されており、その主題は二重化されている。すなわち事件が一か月おきに等距離の地点で起こるという時間と空間、物語構成上の「シンメトリー」と、作品のクライマックス、トリスト=ル=ロワの舞台装置、神像やバルコニー、階段など氾濫する「シンメトリー」の異様なイメージとして。
 「瞳をとじて」では現代的な作品本編と古典的な劇中劇「別れのまなざし」が入れ子構造を成していて、作品の始まりと終わりは「別れのまなざし」、すなわちその舞台であるトリスト=ル=ロワで対応している。さらには冒頭に登場したヤヌス像が、物語を見届けたとでもいうように、エンド・ロールにも再登場している。また「別れのまなざし」で生き別れた娘を探すよう依頼するレヴィ、依頼を受けるフランク、探し出された娘ジュディスの関係性は、探す者と探される者、父と娘の再会の主題として、「瞳をとじて」の主要登場人物、ミゲルとフリオ、その娘アナによって変奏され、その三角形は近似的な対称性を成していると言えるかもしれない。
 ただ、対称性を問題にするなら、拙論「見出された時」で既に述べたように、「ミツバチのささやき」(1973年)との、作品をまたぎ、半世紀の時を隔てた構成上の「シンメトリー」の鮮やかさに、何よりも打たれた。すなわち、フィルム缶を積んだトラックの到着、村の公民館での「フランケンシュタイン」の上映で物語の幕を開ける「ミツバチのささやき」に対し、やはりフィルム缶を積んだ車が到着し、閉館した映画館で未完の映画を上映することで長いドラマの幕を下ろす「瞳をとじて」。もっと挙げることが出来る、「Soy Ana――私はアナ」、半世紀の時を経た、同じアナ・トレントによる、奇蹟とでもいいたい台詞の反復、淡い光に照らされ、瞳をそっと閉じる、アナとフリオ、二つの作品の主役のクローズ・アップ、ラスト・カットの対称性……「微かな痕跡」どころではなく、お蔵入りとなった「死とコンパス」は深い伏流、水脈となって、「瞳をとじて」の中で命を吹き返したのかもしれない。

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橋本 健史
公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。