【随筆】【音楽】【文学】我が心はハイランドにあり
誰にでも溺れるほど聴き込んだアルバムというのはあると思うが、私にとってはエディ・リーダーの「Sings the Songs of Robert Burns」(ロバート・バーンズを想う)がそんな一枚だ。発売は2003年だからもう20年以上も前のことで、その頃はポピュラーミュージックを聴くことはめっきり少なくなっていたが、それでも、ロディ・フレイムやエディ・リーダー(ともにスコットランド・グラスゴーまたはその近郊出身)は、思春期の頃からの変わらぬアイドルで、社会人になってからも追い続けていた。
バーンズのトラディショナル・ソングをアレンジしたアルバムは、バーンズの詩のように直截で真情に溢れ、オーケストラの厚い音の響きをバックにしたエディの澄んだ歌声は、魂の深みとか、集合的無意識とか、何かそういったものに直接響くような温かさと力強さに満ちている。深い海に潜るように布団を頭からかぶり、ヘッドフォンで一日中聴いていたように記憶している。どうせ何か、現実逃避していたのだろう。
で、このアルバムを聴き続けているうちに、ロバート・バーンズの詩を溺れるように読み耽るようになった。
ロバート・バーンズは1759年生、1796年没の18世紀スコットランドの国民的詩人。スコットランドではお札になっているらしい。農民出身で、過酷な農作業に勤しみながら、スコットランド方言を駆使し、庶民の哀歓をユーモア込めて歌った珠玉のような抒情詩を残した。古いスコットランド民謡に新たな歌詞を付けたり、アレンジをしたことでも知られ、「蛍の光」や「故郷の空」は特に有名。酒に溺れ、極貧の生活の中、わずか37歳で世を去った。宮沢賢治(1896年~1933年)と同じ享年だと思うと、何か感じるものがある。
エディのアルバムでも歌われている、よく知られた詩を引用する。初行のMy love is like a red, red roseのlとr の頭韻の響き、たたみかけるようなa red ,red roseのリズム、素朴だが一気に引き込まれる。
ロバート・バーンズの詩は以前取り上げた国木田独歩(1871年~1908年)の小説にも顔を出す。「武蔵野」所収の「星」という小品だ。
「都に程近き田舎」に住む若き詩人が、秋の枯葉を集めて焚き火をしたところ、銀河から星の恋人たちが降りて来て、暖を取りながら愛を語り合うという、七夕伝説をもとにした幻想的な佳品で、季節は星空の美しい初冬に設定されている。
恋人たちが詩人に感謝の言葉を伝えるため、彼の寝室を訪れると、彼の枕元には詩集が開かれたまま置かれており、西詩「わが心高原にあり」の「いざさらば雪を戴く高峰」という箇所に赤い線が引かれていた。乙女の星はこれを見て涙を浮かべ、「年わかき君の心けだかきことよ」と言って何事かを詩人の耳元でささやき、恋人たちは詩人の頬にかわるがわるキスをして、部屋から立ち去る。
翌朝、詩人は昨夜見た夢を思い起こす。夢の中で、乙女は彼を丘に誘い、「君は恋を望みたまふか、はた自由を願いたまふか」と問い、詩人が「自由の血は恋、恋の翼は自由なれば、われその一を欠く事を願わず」と答えると、乙女は微笑み、西の空を指してよく見ろとだけ言って消えていた。詩人は床から跳ね起きて丘に登り、西の空に目を向けると、二つの小さな星が見えるが、やがて薄明の中、星の光は消え、雪を戴いた山々が姿を現した。詩人は恍惚となり、「わが心高原にあり」をうたい、「いざさらば雪を戴く高峰」のところで、一層高く声を張り上げる――。
この「わが心高原にあり」の原詩がバーンズの「My Heart's In The Highlands 」で、現世では薄幸を運命付けられているであろう詩人にとって、バーンズが高らかに讃えるハイランドは、彼岸的な憧れの象徴としての心象風景なのだろう。
バーンズの「My Heart's In The Highlands」をもとに、ボブ・ディランが曲を作っている。1997年リリースの「Time Out of Mind」に収められた「Highlands」だ。
アルバムの掉尾を飾る曲だが、とにかく長い(16分33秒!)。 「Blonde on Blonde」(1966年)所収で、2枚組LP盤の2枚目B面を丸々使った私の愛聴曲の大作「Sad Eyed Lady of the Lowlands」(ローランドの悲しい目の乙女)でさえ10分45秒であったことを考えると、いかに長大かが分るかと思うが、無駄に長いという印象はしない。どこか乾いたユーモアのある、トーキング・ブルースの淡々とした語り口に、不思議な味わいが残る。
歌われているのはどん詰まりの世界、ろくでもない日常(おそらくは一日の出来事)と、ひどく憂鬱な気分。「本物のブロンドと偽者との区別だってつけられやしない」、「転がること意外だったらどんなことだってわたしが乗り気だったってきみは言うんだろうね」など、辛らつで、過去の自作をほのめかすような意味深な言葉が散りばめられ、物語は聴き手に肩透かしを食らわすように展開し(ウェイトレスとのトンチンカンなやりとり等)、繰り返される「それでも私の心はハイランドに馳せているんだ」というフレーズが、ある種の諦念のようにも、決意のようにも響く。
著名な評論家のグリール・マーカスは、この「話が脇道にそれてばかりいる遺書」のような歌を、かの「Like a Rolling Stone」(1965年)との関連で論じている。「ライク・ア・ローリング・ストーン」が切り開いた、地図にない国「ハイウェイ61」――自己を支える全ての根拠が崩壊して、帰る家さえないような不安定とリスクの世界――と、やはりどこにも存在はしないが、そこに行けば安寧と帰属感が得られるという約束の地「ハイランズ」。「ライク・ア・ローリング・ストーン」が予言し、また、聴き手にそれを感じ、そこに乗り出すよう要求した世界、生き方の、その軌跡の先に「ハイランズ」はあるのだと。
今回、調べていて、エディ・リーダーがボブ・ディランの曲をカバーした音源と映像が存在することを知った。ディランの初期の名曲「Don't Think Twice, It's All Right」(くよくよするなよ)がそれで、エディらしい選曲だと思ったが、スコットランド独立問題を巡る議論が背景にあるようだ。以下、引用する。
いつかライブで、 サプライズで演奏してもらいたいものである。