雑談#16 セイラさんが幸せになれる、それが本当に目指すべき世界だっただろう
「ガンダム」の女性キャラクターは、不遇です。
最初のガンダム「機動戦士ガンダム」の女性キャラクターで一番人気だったのは、セイラ・マスでした。「機動戦士Zガンダム」のキャラクターで、絶大な人気を誇ったのは、フォウ・ムラサメでした。しかし、今はどうでしょう。pixivで検索してみると、「セイラ・マス」のタグがついた作品は1155、「フォウ・ムラサメ」タグは403、いずれも同作品の主人公「アムロ・レイ」(2505)「カミーユ・ビダン」(1881)と比較すると、半分以下になっています。
その理由としては、シリーズの中の1作品でしか活躍しないこと、というのが考えられます。それでもセイラがそこそこ多いのは、安彦良和氏の「ジ・オリジン」があったことや、漫画「デイアフタートゥモロー —カイ・シデンのレポートより—」でカイ・シデンと再会したエピソードが描かれたことで、人気が再燃した、ということがあるでしょう。一方のフォウ・ムラサメは本編で死んでしまうので、二次創作を楽しむ余地が少ない、ということがあげられます。
もう一つの理由として考えられるのは、女性ファンの二次創作の志向が「ボーイズ・ラブ」に向かっていることです。なので、そうした二次創作作品に登場したとしてもチョイ役、ボーイズ・ラブのお膳立て役になってしまったりすることが多々あり、特にイラストや漫画では、男性向けの18禁作品が多数になってしまう、ということがあります。
そういった志向の創作を否定する気持ちはまったくありませんが、好きだった作品のキャラクターの「扱われ方」にがっかりする気持ちは、否めません。そんな中でも、セイラを主人公にし、そのキャラクター性を大切にしながら創作された作品を読めることは、私にとってはとても幸せなことです。
かくいう私も、「機動戦士ガンダム」の女性キャラクターの中では、セイラ・マスが一番好きでした。カイ・シデンが初対面のとき言ったように「お高くとまった」振る舞いと言動、心に壁があるような孤立感とクールな話し方、冷静沈着な行動と際立った判断力、必要とあればときには励ましの言葉をかけることのできる人間力、そうした、人としての自律性と裏腹に、兄を思い慕う思いで壊れそうな心の一面。自立した強さがありながら、優しさと脆さを隠し持つ、そんな彼女のギャップが、とっても魅力的だったのです。
人気の証として、放映当時の雑誌「アニメージュ」の記事を紹介しましょう。1980年8月号に掲載された「セイラ・慕情」という特集記事です。
セイラの声を担当された声優の井上瑤さんと、富野喜幸監督のコメントが掲載されています。
そんなセイラさんですが、アムロがZガンダムの主人公でなかったこと以上に個人的に残念だったのは、Zガンダム以降セイラさんがストーリーに絡むような登場をまったくしなかったことです。そこには、声優さんの大人の事情があったりしたことは、ずいぶん後になってから知りましたが、そうした事情は措くととして、シャアの妹という重要な立ち位置にあるキャラクターだっただけに、その後の姿をもっと見たい、と思ったんです。
ただ、上記の富野監督のコメントを読むと、たしかにセイラさんはガンダムの中では〝狂言まわし〟(物語の進行役、解説役)で、彼女を通して、シャアの正体やジオン・ダイクンについて見るものに明かされた、そういう役割だったので、続編に登場する必要のなかったキャラクターだったともいえます。
実際、セイラさんの登場場面は第37話「ダカールの日」で、連邦議会を占拠した上でクワトロ・バジーナが自分の正体を明かして演説するのを、携帯機器で聞いている姿が一瞬うつるだけです。
なんだか寒々しい風景の中にたたずむセイラさんですが、ここがどこなのか、一体彼女は何をして暮らしているのかは、まったく説明されません。ですが、そのヒントとなる資料をメルカリで入手したので、少しご紹介したいと思います。アニメディア1985年11月号第1付録「Zガンダムパーフェクトガイド」に特別企画として掲載されているオリジナルストーリー「セイラ・マス 昨日への訣別 序章」です。
これによると、彼女は白夜の時期がある北欧のとある場所で、医師として働いています。5年前、地中海が見える医科大学の研修所から、北にある病院へ配属された、とあります。もっとも、それは彼女の自由意志というわけではなく、危険分子として監視する目的もあるようで、アムロ同様、閑職に甘んじている様子が描かれています。そこで、同じ病院の医師仲間、カールソンと付き合っているようです。
そこである日、ダカールの会議で重要な放送があることを耳にし、テレビ中継を彼女は見ます。そこで兄、キャスバルが自らの正体を明かして演説する姿を目にする、というお話です。
彼女は、仮面をはずした兄の姿を見て、自分を取り戻したのだと思い涙します。
この雑誌企画のオリジナルストーリーを書いたのは、本編「ダカールの日」の脚本を手がけた鈴木裕美子さんです。なので、ひょっとしたら、これは本編からはこぼれたけれど、そこに入れようと考えられていたエピソードだったのかもしれません。そうすると、彼女がいたあの寒々しい場所は北欧、とも考えられます。
実際には、無言のセイラさんがこの時、何を感じていたかは表現されていないのですが、私だったら、あのクワトロのダカール演説を聞いて「兄は自分を取り戻した」とは思わない、と思うのです。
ダカール演説の要旨を一言でまとめると、「美しい地球を守るため、我々は地球上の人類を残らず宇宙に追い出したい」ということになります。地上の人々を、家に住み着いたゴキブリか何かのように駆除しようというのです。しかし兄さん、人にはそれぞれ自分の意志というものがあるじゃないですか。理想を実現するために、自由意志を奪う手段として暴力を使う。そのやり方は、兄さんがシャア・アズナブルを名乗っていた頃と、少しも変わっていないのですから。むしろ、そんな兄に賛同してホイホイついていってしまうアムロやハヤトを諌める方が、セイラさんらしいかなと思うのです。
続編で、セイラさんの存在に意味を見出すとすれば、彼女は愛する兄と引き裂かれ、戦争が終わっても引き裂かれたままでいる、いわば分断の象徴です。そしてセイラさんは薄々気づいているんです。父ジオン・ダイクンが語り、兄が実現しようとしているその理想こそが、人々を分断し戦いに向かわせているのだと。では果たしてその理想は、人々を幸せへ導くものなのだろうか? おそらく、そこで決裂してしまったから、「逆襲のシャア」では再びアムロとシャアとが対決する運びとなったのだろうという推察が成り立ちます。だから、エゥーゴとティターンズとの戦いの蚊帳の外にいて、そうじゃないのよ、と冷ややかに第三者の目から戦いを見つつ、最後に医師として現れて、戦いで傷つき精神崩壊をきたしたカミーユを癒す、というふうになっていたら、かっこよかったのになと思います。井上瑤さんが語っていた通り、「ロマンチックな過去は、たしかにセイラの装飾になっているけれど、それを取り去ってもなお、あのひとはうらやましいほど美しく光るひとなのだから------」。
そんなわけで、Z以降のガンダム世界から消えてしまったセイラさんの、うらやましいほど美しくひかる姿を求めて、自分だけの「機動戦士ガンダム」のその後の世界を描いています。
そんな中から、この作品をご紹介します。
戦後、セイラとアムロがそれぞれに、自分についた負の烙印を見つめつつ、本来の自分を取り戻そうともがく、短編です。