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ご飯と味噌汁セラピー
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少し前、子どものイヤイヤ期が始まった頃、お昼に食べていたご飯と味噌汁を噛むごとに涙が溢れてきて、最終的には号泣してしまった。その日は在宅ワークで目の前で仕事をしていた夫が少し驚いた様子だったけれども静かに傍にいてくれた。
子どものイヤイヤをコキンちゃんでなんとか凌いではいたけれど、やっぱり無理していたんだなぁと思う。1歳になり、コミュニケーションが取れるようになって、「お散歩行こうか?」といえば「うん」と嬉しそうに答えるのが可愛かったし、嬉しいなぁと感じていたのも束の間、気づけば全てに「ノン」と言われ、自我の目覚めが喜ばしい一方で、悲しくて戸惑っていたのだろうなぁと思う。どういえば 「うん(oui) 」と首を縦に振ってくれるのか必死に考え、コキンちゃんを頼っていた。
そんな風に自分が思うようにさせなくて良いというのが本当のところで、むしろ子どものやりたいを、1分でも2分でも良いから聞いてあげる方がいいのだろうけれど。
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それはわかっているんだけれど…!どうしていいか分からなくて辛い。
子どもの『イマココ100%のピュアで1分先のことすら考えない気持ち』の一方で、自分の『気持ちはわかるんだけれど、大人の事情や時間の制限があってできないし、実は何より結構面倒くさい』気持ちに挟まれて、その板挟みが辛いのだろうと思う。いろんなことが脳裏に浮かび、子どものピュアな気持ちに応えることができない自分を『しょうがないよね』と正当化したいけれど、幼少期の自分の母親に対する不満を思い出して、なりたくなかった親像に自分がどんどん近づいている感じがして…そんな自分が嫌!という葛藤もまた自分を苦しめてしまう。
「でも結局、マミちゃん立派に育ってるじゃない。」とお友達に言われ、その言葉には心が少し救われた。それしか知らないし、他のやり方がわからないから、自分の母親に似るのは当たり前なのだ。「自分はこれで良いのだ、十分頑張っている…!」と認めれたらきっと良いよなぁ…と思いながらもまた自己嫌悪になるような、その繰り返しだった。
お昼ご飯中に号泣して、こんなこと前にもあったなぁと懐かしい気持ちになった。大学院時代、学会前か何かで忙しい時期にプレッシャーで心が参っていた時、先輩に「最近何食べてるの?」と聞かれ、思い出せなかったのだった。100%コンビニ頼りで、1週間の食事内容を「全然覚えてない…」と気づいた時にショックと虚しさで悲しくなった。心配した先輩が「夜ご飯作るから、来て」と招待してくれて、そのメニューがおにぎりと味噌汁と何か小さなおかずであった。そのおにぎりを食べながら、私は「美味しい」と鼻水を垂らし、嗚咽しながら泣いた。
啜り泣きが嗚咽となり号泣する私を夫は静かに見守ってくれていたのだが、それがありがたかった。そのあとは心が軽くなったし、大学時代の時も思いきり泣いてスッキリとした気持ちになったことを覚えている。視界も広く、鮮やかになった気がした。張り詰めていた気持ちが涙と共に緩んで、頑張りすぎていたんだよという自分自身からのお知らせを受け取った感じだ。
少しずつでいいんだよなぁ。私も子と一緒に母親として成長して行こう。疲れたらご飯と味噌汁がほぐしてくれる。
とその夜、夫が「どうして泣いてたの?」と聞いてきて、わかってなかったんかいという非常にトホホな気持ちになったのだった。
惜しい、せめて明日聞けばいいのに!と。