みなさん、どうも初めまして。無駄なことしか書かない「MUDA」です。 東京在住で、普段はマスコミ関係で働いています。好きなものは読書と自然とコーヒーと銭湯巡り。愛する妻と二人暮らしです。 数年前からずっと仕事ばかりで、「なんだかぁ」とモヤモヤを抱えることが増えています。ちょっとずつ心に余裕がなくなっているような。 だからこのnoteの場では誰の役にも立たない僕自身の考えたことや思ったことを書いていこうと思います。 経済性や効率性ばかりが求められる社会だからこそ、余白を
あなたはどんな人ですか。 人に自分を紹介するとき、職業や肩書を外して語れますか。 わたしはその自信がありません。 好きな人、好きな食べ物、好きな場所、逆に嫌いなもの。 そうしたもので自分を表現できたらどんなにいいか。 そんな社会だったらいいのに。
今回は真面目なことを書きます。ひとの一生は大体80年くらいとすると、そのうち「自分のこと以外」を考えられる時間はどれくらいなのでしょう。私が思うに、ほとんどの人が人生のほとんどを「自分に関すること」に費やすのではないかと思っています。 何が言いたいかと言うと、生きているうちに「人類」のことを考えられる人はどれくらいいるんでしょう。能力や余裕を含めてそれほどいないのではないかと思っています。 でもどうせ生きるなら、なにか一つ人類に貢献したとか、為になったとか、そういうものを
朝起きる。支度する。家を出る。電車に乗る。会社につく。仕事する。昼食をとる。仕事する。会社を出る。電車に乗る。家につく。晩ご飯を食べる。お風呂に入る。ふとんに入る。寝る。 私のおおまかな一日のサイクルです。都会の会社員はだいたい同じような感じでしょうか。こういった日が何日も続くと、私のこころがこう叫びます。「なんだこの生活は! まるでロボットじゃないか!」。違うどこかに飛び出したくなります。 皆さんは日頃、どうやって「生」を実感しているのでしょうか。「自分は生きているぞー
皆さんがお勤めになっている会社は表彰制度はありますでしょうか。 多くの会社では、成績や成果に応じて、社長賞とかありますよね。でも、それって何のためにあるんでしょう? おそらく会社側からすれば、きちんと評価してあげて、社員のモチベーションアップにつなげたい。という狙いがあるのでしょう。 しかし、社員(私)から見てみれば、それって少し怖い気がするんです。 なぜか。それは評価基準が「組織のために貢献したかどうか」であって、「決して世の中のためになったかどうか」ではないからで
今回は自分のことを書きます。戒めを込めて。 子どもの頃から心配性だった。過剰なほどに。 中学生の頃。「高校受験に落ちたらどうしよう」。勉強しなきゃ。 高校生の頃。「大学受験に落ちたらどうしよう」。勉強しなきゃ。 大学生の頃。「就職できなかったらどうしよう」。食いっぱぐれのないように資格の勉強をしよう。卒業できなかったらどうしよう…etc. 心配性だった面が自分を追い込む要素になったことは否めないです。 よく社会で活躍している人も言いますよね。インタビューや著書で「
突然ですが、皆さんは何かを「研究」してますか? 仕事でも、趣味でも、もし何か研究している人はコメント下さい。どのようなテーマで何でそれを研究することになったのか知りたいです。 というのも、最近「在野研究ビギナーズ」という面白い本を見つけました。大学などに属さずに研究している人たちの寄稿を集めた本です。これがとっても面白いのでオススメです。 思い返せば、僕も何かを研究することが好きだったなぁと。昔、野球をしていましたが、何が好きだったかというと、どうやったらうまくなれるかと
先日、妻と2人で1週間、海外旅行に行ってきました。海がとってもきれいな場所で心が洗われました。 日常から離れて、海外に行くと、日本にいては考えなかったようなことを感じることがあります。 一つ目は「新しい自分に出会える」ということ。私は平野敬一郎さんの「分人主義」が好きで良く読んでいるのですが、日本にいる「自分」と海外にいる「自分」は似ているようで違います。まずは他人の目を全く気にしなくなります。これは見た目が違うということが当たり前だからかもしれません。また、日本にいると
奇跡。 1 常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象。「―が起こる」「けががなかったのが―だ」 2 キリスト教など、宗教で、神の超自然的な働きによって起こる不思議な現象。 出典:デジタル大辞泉 今、この私のどうでも良い記事を誰かが読んでくれているという奇跡。 あなたと私がこのnoteを通じて出会ったという奇跡。 あなたと私がこの世に、しかも同時期に、存在しているという奇跡。 私自身、決してロマンチストではないが、人生は理屈では説明できないことが多すぎる。 宇宙