【エッセイ】憧れている教師への同性愛的感情について
私は男性の年上の教師的存在にたいして、彼に学者・作家・知識人としての魅力を感じれば感じるほど、同性愛的な被愛欲求が強く芽生える。師弟関係になりたい。そして師匠にとってかわいい存在でありたい。寵愛されたい。愛を独占したい。
教育という権力関係の中の擬似恋愛的感情だといえばそれまでだ。しかしそうした感情を無視することができない。子供の頃から、年上の男性の前では緊張してしまい苦手だったのだが、その理由は、つねに求愛の努力が試されていると勝手に思い込んで自縄自縛に陥っていたからである。それほどまでに人生への影響は大きい。
とはいえ、性的関係を男性と結びたいかというと、それは疑わしい。小学生の頃、なんとなく同性の同級生とペッティングをしたり、教師に体を触られたりした(現代ではかなり問題があるにせよ昔のことなのでとくに気に留めていない)が、あまり気分のいいものではなかった。庇護のなかに閉じこもりたいだけで、肉体関係になりたいわけではおそらくない。
この欲求を精神分析的に語れば、父性的な愛情への渇望ということができるだろう。しかし難しいのは、それがどんなものか具体的にわからないことである。父性とは一体、何なのだろうか? 実際、欲求が強まれば強まるほど、私自身が何を欲求しているのか像を結ばなくなる。これがエディプスコンプレックスのように、父を殺害し母と性交することを望んでいるならば、実にわかりやすい。しかし、実際はさらに複雑だ。
父性へと向けられる感情は、父性的存在を乗り越えることと、彼から承認されることとが、矛盾しながら縺(もつ)れ合う撚り糸である。極端に言えば、殺害したいと同時に寵愛されたいような拗(こじ)れた欲望だ。実際、私は、尊敬する批評家や思想家と出会うと、一介の読者やファンとして振る舞うことができなくなり、なぜか批判的な意見をぶつけて厄介そうに疎まれるようなことをする。ゆえに、あえて話しかけられない。
こうした見通しのたちがたさゆえに、翻って自分自身が父性的な立場に置かれたとき、私は精神的危機を迎える。まったくどうしていいかわからない。意図してそこから離れなければならない。こうした父性的な教師に関する問題を、多くの人はどのように切り抜けてきたのだろうか。それは私にとって、強い感情の転移が生起する場面として、恋愛にも似た避けがたい困難であるにもかかわらず、先達から教訓を引き出す逸話が少ない。