技術は思想を伝達する道具にすぎないことを忘れたくない
マクドナルドのポテト割引キャンペーンのCMにAI生成動画が起用され、炎上した。コメントの多くは、AIによって人間の仕事を奪われることへの恐れによる批判だった。相変わらずX(Twitter)はおしまいだ、と思いながらWebページのタブを移動し、"ジェネレート"ボタンを押す。数秒待つと空白だった画面に、公園で中年女性が縄跳びをしている画像が4枚並んだ。AIで仕事増えたな、と脳内で呟いた自分は、批判コメントを書き残す大衆と同じように、炎上は人ごとだった。
写真、映像、音楽、プログラミングの制作など、今までであれば専門の技術取得が必要だったことがAIによって完結するこの時代、「プロンプト」が「努力」に取って代わった。そして努力の壁が取り払われたことで、その技術は大衆化する。それはデジカメやスマホなどのツールによって、誰もが"カメラマン"や"映像クリエイター"と名乗ることができる時世を可能にした。なにもそれが悪いこととは言わないが、映画製作を学ぶために4年制大学へ通い、卒業した瞬間から奨学金という借金を700万円背負った私は、趣味でカメラを始めたサーファーがVlogを"シネマティック"と呼ぶことが気に食わなかった。「ただ背景ボカしただけじゃねえか」ずっとそう思っている。
そもそも写真、映像などの視覚メディアは情報の取捨選択で成り立っている。(アニメやイラストにおけるデフォルメという概念も同様)。焦点を合わせる、フォーカスを絞る。 スマホの画面をタップしたり、レンズの絞りを回したりして1点にフォーカスを合わせることは、自分が何を伝えたいかという意図を介入させること。ヒトラーがプロパガンダで映画を使用したように、カメラは武器であり、編集は権力なのだ。YouTuberの彼らはそんな映像の持つ権威性を背負って、"シネマティック"映像を公開しているのだろうか。
いや、そんな必要はない。
あれらはあくまでシネマ"ティック"であって、シネマではない。"ティック"がつくことで、シネマの技術は大衆化したのだ。学校行事の思い出ムービーをWindowsのムービーメーカーで編集して、ホームルームで上映していた中学生の頃の自分は、その教室の全員が撮影・編集できる時代になるとは思っていなかっただろう。あの頃は自分を唯一無二だと思っていたが、同時に孤独だった。この状況はむしろ、喜ぶべきなんじゃないだろうか。
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