他人を自分の所有物だと思ってる奴みんなイモータン・ジョー
「久しぶり!何気に卒業式ぶり?よくインスタで何か作ってるの見るけど、最近なにしてるの?」
「おお、久しぶり!アニメで父権社会ぶっ壊したいんだよね」
同窓会でそんなことを軽はずみに発言すれば、なに言ってんの?、政治的な発言やめてよ、などと返答が返ってくることは容易に想像がつくので自粛すべきだが、正直そんな配慮している時代はコロナ禍と共に終わった。
長年の父親の度重なる不貞行為によって両親が事実的な離婚をしてから2年ほどが経ち、縁を切った父からは3ヶ月に1回ほどCメールが届くが、私はそれをことごとく無視し続けている。母と妹とは年に一度、祖母を含めた4人で旅行に行くほどの仲だが、私の家族関係が現状に落ち着いた要因は、往々にしてこの父権社会にあると感じている。
先日公開された映画『マッドマックス:フュリオサ』は、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の前日譚となる作品だ。偉大なるジョージミラー監督はシリーズを通して、この世界の全てを支配している「父権社会」「家父長制」を映画というエンタメを通して浮き彫りにしている。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の中盤、イモータンが無理やり孕ませて産ませた赤子を、主人公マックスとフュリオサに奪われ、改造車で爆走追撃しながら「That's my property!」(そいつは俺のモンだ!)と叫ぶ。この瞬間、画面の中で魅力的なヴィランとして機能していた一人のキャラクターであるイモータンが、私の中で一瞬にして「この世の全ての男たち」に変換された。
『マッドマックス』はあくまで叙事詩だが、ただセクシャリティー:男性として生まれただけで権力を持った男たちに、いかにこの世界は"所有"されているかは、現在放送中の朝ドラ『虎に翼』を見ればより現実のものとして感じ取ることができる。日本国憲法が公布される前までは、法律上結婚した女性は"配偶者"の"所有物"であったことがドラマ序盤で描かれるが、法律が変わろうとこれは現在でも人々の潜在意識下で残っていることは断言できる。
実在の人物をモデルにした、のちに日本初の女性裁判官となる主人公の寅子は、「はて?」が口癖だが、そんなこの世界の当たり前に疑問を持てる人が、世界を変える気がする。なんで「嫁」って漢字は「女」と「家」で成り立っているんだろう。なんで広告はオヤジギャグが多いんだろう。なんで赤ちゃんをトイレで産み落としたシングルマザーが逮捕されるんだろう。なんで性被害を受けた女性が指を入れられたかどうかまで証言しなきゃいけないんだろう。なんでテレビ・ラジオで「ちんこ」って言えても「ま◯こ」って言えないんだろう。
個人的にフェミニズムは女性のためだけでなく、「権力を持った無能な男性」をそこから引き摺り下ろすためにあると考えているが、その理論を振りかざして「この世の全ての不条理を父権社会のせいにする!」と決めた時から、圧倒的に生きづらい。しかし現状シスジェンダー・ヘテロセクシャル男性として生きている自分はバチバチに特権側で、生理もないし、女性に比べたらアホみたいに生きやすい。この生きやすさは、いつでもイモータン・ジョーになり得る可能性を孕んでいる。(いやなっている瞬間もあるかもしれない)。権力は放棄も所有もせず、分かち合う。その先にあるのはマッドマックスのようなディストピアではなく、誰しもが”当たり前”に「はて?」と疑問を持てる世界なのかもしれない。
<関連コンテンツ>
映画『マッドマックス:フュリオサ』
映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
朝ドラ『虎に翼』
漫画『おかえりアリス』
漫画『先生の白い嘘』