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インド旅|ガンジス川のほとりで(後編)


人が焼かれるのを見た。


人が焼かれるのを見て思ったことを話すのは、その内容が痛烈で洗練された感想であればあるほど、言い訳みたいに聞こえるなと思う。

「私は人が焼かれるのを見て感情を動かされる、情がある人間です。その上で感情に飲まれず一歩引いたところから熟考できる理性的な人間です。そしてそれを昇華することができる人間です。そういう、善き行いができる人間です。」

ひねくれているのはわかっている。

私は人が焼かれるのを見ながら、すでにこの体験を文章にすることを考えていて、書く材料を集めるために隅々まで目に焼き付けようと食い入るように炎を見つめていた。歪んでいる。人が焼かれているのを真剣な面持ちで見るふりをして、心の底ではこんなことを考えて。焼かれていく人を話のネタにして。

後ろめたい気持ちと、湧き上がる好奇心とを天秤にかける。
-好奇心の圧勝だ。

…さて、言い訳は十分に整った。
清々しい気持ちで書き始めることができそうだ。


ヒンドゥー教には仏教と同じく、火葬文化がある。焼かれた灰をガンガーに流せば、死者は輪廻の輪から解脱することができると言われている。例外的に、子どもや妊婦、聖職者は重しをつけてそのまま川に沈められる。

地球の歩き方の簡素な解説を眺めながら、ぼんやりと想像をした。人が焼かれるところ。重しをつけて川に沈められるところ。それを見ている遺族の表情。そしてその川で人々が沐浴をしているところ。

まるで三途の川みたい。きっと厳かな場所に違いない。わたしはそこで神妙な気持ちになりながら、たゆたうガンガーに身を委ね、黄昏れるのだろう。そんな想像をしながらこの場所へとやってきた。


朝日を見たあとに河岸をふらふらと歩いていると、当たり前のように剥き出しの火葬場が現れた。ここが火葬場だと言われなければ、焚き火してるのかなぁと通り過ぎてしまいそうなくらい、野晒しで、そのまんまだ。

ちょうど死装束をまとった女性が運び込まれてきて、綺麗に組み立てられた薪の上にその身体が乗せられた。様々な儀式を経たあと、その女性の夫と見られる男性が大きな松明を持って薪の周りを5周して、その手で薪に火をつけた。松明の火は聖火リレーのように、太古から消えぬよう守られてきた火種から分けてもらう神聖な火なのだそうだ。

目の前で人が、燃えている。
あの炎の中は、生きていれば耐えられないほどの激痛なんだろう。それなのに死者だから、痛みもなければ(本当にそうなのだろうか)、ものも言わない。安らかな顔のまま、ゆっくりと焼かれていく。

家族はただ黙ってその光景を見ている。泣く人は一人もいない。周りの人が泣くと、死者は輪廻の輪から解脱できなくなってしまうらしい。泣かないようにするためなのか、火葬場にはやたら陽気な音楽が流れている。もちろん誰も歌ったり踊ったりはせず無表情に火と向き合っているので、陽気な音楽だけが虚しく響いて、異様な雰囲気だ。

風に乗って飛んできた灰が、頭上から降り注ぐ。

今目の前で燃されている人がもし自分の家族や愛する人だったならばどうだろう。私は耐えられるだろうか。

灰を被る


母が、父が、祖父母が、恋人が、あの炎の中に横たわっている様子をひとりずつ順番に思い浮かべた。頭の中に生成してしまったとんでもない光景が目の前の光景と重なり、心から雑念が消えてゆく。もちろん泣いてはだめ。

あぁ、でもその光景を見るのはきっと正しいな。
正しいというか、死の受け入れ方がなんというかものすごく直球ストレートだ。死んだから焼きます、焼くと肉体はなくなります、肉体がなくなれば魂は解放されます、という一連の流れをまざまざと見せられ、それ以外に解釈の余地を与えられないストレートさ。清々しい。

でも国や宗教によって色々な弔い方があるんだよなぁと、ふと思う。多様であればあるほど嬉しいな、その方がより多くの人の心の救いになるから。

現代の日本では、火葬場の殺風景な控室で、今頃焼かれているんだなと思いながら過ごすんだよね。(久しくその場には立ち会っていないから遠い記憶だけど。)どれくらい焼かれているのかも、どんな風に形が崩れていくのかも知らず、ただ祈るように時間を過ごし、全部終わって対面したときには骨だけになっている。

目隠しをされ、守られている。遺族の心も、死者のプライバシーも。そうやって生々しいところは隠しておくのが現代のやり方だから。…と思ったけど、棺ごと焼かれるから剥き出しでもどうせ見えないのか。

なんか焼かれるところを直視するのが正しい在り方だ、みたいな言い方をしてしまっているけれど、それもそれで傲慢だなぁ。「辛いこととちゃんと向き合えば、燃え盛る炎を直視すれば、受け入れて前に進める」と信じたいだけみたい。努力は必ず報われるって言ってるのと同じようなものだ。努力は報われるとは限らないし、死は、誰がどう解釈しようとただ事実としてそこにあるだけなのに。

まぁ、でも。

人間は想像する生き物だ。死んだ人が火葬される様子を見るか見ないかなんて、本質的には大した問題じゃないよなと思い直す。大事なのは、想像力の豊かさだ。故人とどう向き合うのか、自分はこの先その人なしでどう生きることにするのか、それは各々が自分で決めればいい。その想像力があることの方がよっぽど大事だ。

もし将来自分に子どもができて、人は死んだらどうなるの?などと聞かれた暁には、いろんな大嘘を吹き込んでやろう。それは全部嘘だよって笑いながら言った上で、「インドのガンジス川という川に行って、誰かと一緒に一杯のチャイを飲みなさい。そうすればあなたの知りたいことは全部わかるのよ。」とかって大真面目な顔で言ったろ。


人が亡くなり、焼かれて灰となり、川に流される。

乞食が物乞いをしていても、野良犬が火葬場の泥水を舐めていても、川で死者の金目のものを漁る者がいても、ここで最期を迎えられたら本当に幸せなのかもしれない。

毎日がお祭り騒ぎで、たくさんの人が水辺に集い、意味がわからないくらい混沌に満ちていて、陽気で。黄昏るつもりで来たガンガーは、しんみりすることなんて一切許してくれない騒がしさと混沌に満ちていて、毎秒足元から熱気が立ち込めてくるようだった。

だからここで最後を迎えれば、きっと寂しくない。
安らかではないかもしれないけれど。


川から離れ、急な階段を登って市場の方へ行く途中、今まさに火葬場に運び込まれていく新たな遺体に遭遇した。女が亡くなった人に寄り添い、声を上げて泣いている。女性は感情的になって泣くから、火葬場には立ち入り禁止なんだとか。(泣かない女だっているだろうに。)だからこんな手前の道端で最後の別れを告げている。

泣いている女の人を見て、火葬場よりも人が死んだのだという実感が強く湧いた。本当に、おっしゃる通り女は(女はというか、私は)感情の生き物だね。死体が燃されているのを見るよりも、死体の隣で泣いている女を見て「人が死んだんだ」と思うんだから。ふふ。


そういえば夜通しの祭りで爆竹が鳴り響き眠れないガンガーの夜に、忘れていた記憶を一つ思い出した。

昔亡くなった祖父のことだ。祖父は隣の県に住んでいて、私たち家族は通夜に参列するために少し遠くまで行かなければならなかった。祖母の家に着くと遺体が横たわっていて、顔には白い布がかけられていた。その布をずらすと、硬直しきって色を失ったおじいちゃんの顔が現れて、人が死ぬってこういうことかと私は思った。おばあちゃんやお母さんはどうしたのかというくらい泣いていて、つられて私も泣いた。

泣きながら私は、おじいちゃんの温かな膝の上を思い出していた。お酒臭くて、タバコ臭くて、でも温かいおじいちゃんの膝の上でみかんを食べるお正月の風景を。寒くて温かいあの感じを。

「おじいちゃんは、あなたの成人式と結婚式を見るのが夢だったのよ。それなのに、こんなに早く死んじゃって。」とおばあちゃんは何度も何度も言う。それを聞いた私は、うんと可愛いお姉さんにならなきゃ、と思った。私が大人になることがそんなに待ち望まれていたなら、がっかりされないようにうんと可愛くならなきゃと。

喪服代わりに黒いワンピースを着せられていた私はちょっとお姉さんになった気分だったし、手鏡を持ってリップを塗り直しながらそんなことを考えていた。そんな様子を見ていた母は、私を叱りつけた。「あんた、遊びに来たんじゃないのよ、わかってるの?」と。不意打ちの母の険しい顔と声に私はびっくりして、大人しくリップをしまった。

人が亡くなったときは真面目にしてなくちゃいけないんだ、と思った。大人に習ってよくわからない儀式をたくさんした。誰もその意味は教えてくれなかったし、何を思っているかも教えてくれなかった。黙っていることが正解みたいだった。


クーラーのない部屋で蒸し暑い夜にうなされながら、あのときの自分は別に何も悪くなかったなと、私は思い直した。(母もしつけとして間違ってはいなかったと思う。私が考えていたことなんて分かるわけないし、確かに行儀も体裁も悪い。)

今年のお正月は、おばあちゃんに黒おでんをリクエストしよう。ざりざりした黒はんぺんと、しみしみのじゃがいもと大根をみんなでフーフーしながら食べよう。おじいちゃんがいた頃そうしていたように。(常夏のインドでそんな想像をするから、余計に汗をかいてしまった。寝苦しいったら。)

最終日の朝、ガンガーに別れを告げようと外に出ると、河岸で夜を明かした人々で街はごった返していた。目と鼻の先で爆竹が跳ね、完全に耳がイカれた音がする。最後までこちらのペースなどおかまいなしで、どこまでもインドはインドだなぁと可笑しくなる。

自分よりも絶対に年下の少年のバイクに3ケツし、狭い路地を駆け抜ける。これから1日がかりでデリーに戻り、日本へと飛び立つ。意識はすでに帰るべき場所へと向かっていた。心はとても軽やかだ。

死んで魂だけになったら、私はまたここに戻ってきます。ここで、ガンガーのほとりで、1杯のチャイを誰かと飲むために。この地に最後のありがとうを言うために。


さよならインド!いつかまた、必ず。
もう当分来たくないから、ほんとにいつか。


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