こじれた風邪、あの子の豚汁
冷え切っていた。身も心も。
新年早々、実家で風邪をもらってしまった私は一人暮らしのアパートで寝込んでいた。あと2日で正月休みが終わっちゃうな…と空虚な気持ちで無機質な天井を見つめる。年末に恋人と別れ、わるいものは全部2024年に置いてきたつもりだったのに、新年から風邪っぴきだなんて。神様は無慈悲だ。
熱が上がって動けなくなるのが怖かったから、早めの七草粥を作って食べた。あまり美味しくなかった。別れちゃった彼が作ったら、七草粥もきっと美味しかったんだろうな。ていうか彼は酒飲みだから、七草粥ごときでは到底相殺しきれない量の、飲酒負債を抱えているに違いない。元気にしてるのかな。よく夢を見る人だったけど、初夢は何を見たのかな。
こんな風に彼のことを考え始めてしまうきっかけは日常のあらゆる場所に転がっていて、小さな石ころにつまずくみたいにして、私はしょっちゅう引っかかってしまうから危ない。生活の中で感じる些細なことの何もかもが、彼へと結びついていってしまう。ごはんを食べているとき、音楽を聴いているとき、眠りにつく前の時間…そうやって1日に何度も「元彼思考」の落とし穴にはまる。私の脳みそはここ最近有益なことを全く思考してないみたいだけど、一体なんのために存在してくれているのかな。
あっという間に休みは過ぎ去り、気力を奮い立たせ仕事始めを迎えた。そうして迎えた成人の日の3連休のこと。大学時代からの友人と久しぶりに会って、「明けましておめでとう」と言い合った。1年に1回しか言わないあらたまった挨拶は、ちょっぴり照れくさいけど、ちょっぴり特別ですき。
私たちはこの日、神社に行くことになっていた。友人が初穂料を包んでくれて、人生初の祈祷を受けた。神頼みをお金で買わなければならないほど、私たちは何かにすがらないと苦しい状況なのかという思いが頭をよぎり、なんだかずーんと暗い気持ちになる。ネガティブな思考回路になっていることを客観的にわかっているのに、それをコントロールできるわけではないことに、余計イライラする。
いやいや、経験だからこれも。日本人たるもの、神道の儀式の一つくらい体験しておいて損はないじゃない。神なんて存在しないけど、信じる心がなければ人は無力だ。信じなければ希望を感じることができないし、路頭に迷って立ち尽くしてしまう。祈祷に行っても何変わらないと思うなら、行く意味がない。祈祷に行って厄を祓ってもらうことはできないかもしれないけれど、「わたしは大丈夫、2025年はあかるい」と信じる勇気はもらうことはできるでしょう。
そこにいる何十人もの人たちの願いを叶えるべく、神主さんは祭壇に座って神に唱え続ける。各人の住所、名前、願いごとをひたすら羅列するだけの時間。こんな5歳児でもできそうな儀式を毎日毎日、どういう気持ちで読み上げてんのかなぁという雑念が頭をよぎる。15分間も頭を下げ続けると首が痛くなってきて、早く終われと心の中で唱えた。正直、暇でつまらなかった。友人も同じことを思ってたと思う、聞いてないけど。
終わった後、ふたりでおみくじを引いた。ふたりとも末吉だった。ぱっとしない。結んで帰ろうと思っておみくじを紐にかけると、知らない誰かのおみくじがほどけ落ちてしまい、なんだかきまりが悪くなった。ごめんなさい。誰に向かって謝っているのかもわからない謝罪を、心の中でぽつりと呟いた。
お参りを済ませ、友人の家まで歩く。退屈だった祈祷も、終わってしまえば不思議と「楽しかったね!」と思えてきて、大抵のことはそんなもんだよなと思う。好きな友だちが隣にいるなら、なんだっていい。今日は彼女が手料理をふるまってくれると言うから、もう何日も前から楽しみにしていたのだ。
彼女とは大学からの付き合いなのだけど、お互いに人生のジェットコースターが激しいタイプで、いつも何かしらに抗いながら生きている。初めて2人で遊びに行ったのはハタチくらいのとき。池袋のミルキーウェイという有名な星座パフェのお店に行った。"上京したての女子大生(それも、垢抜けてない芋系の女子大生)"を象徴するような、コテコテに可愛いお店だった。
あのときのことは、今でも思い出すとふと笑みがこぼれる。ふたりで思い思いのパフェを頼んで食べたのだけど、パフェのことは何ひとつ覚えていなくて。ずっと忘れずに覚えていることはといえば、彼女がゴクゴクと豪快に水を飲んでいたこと。気付いたら一瞬で彼女のコップの水はなくなっている。彼女は「もう飲みたくない」と何度も言うけど、それでも飲むのをやめられない、と。
お店が空いていたこともあり、暇な店員さんがすぐに空いたコップを発見して水を注ぎにくるから、もう水のわんこそば状態。彼女曰く、そこに水を注がれたら、困ったことにお腹がいっぱいでも飲んでしまうのだと言う。それはもう義務感とか、強迫観念に近い、たぶん。
「登る、そこに山がある限り」
そんな言葉が私の頭に浮かび、じわじわと笑いが込み上げる。
「飲み続ける、そこに水がある限り」
それから私たちは必死で店員さんの死角をついてコップを隠したり、コップを抱き抱えたりして、なんとかして水を注がれないようにあれこれやってみた。でも、やっぱり水は注がれる。そして彼女はそれを黙ってゴクゴク飲む。注がれたら飲むことしかできないから。もう、腹を抱えてゲラゲラ笑った。それから10年くらいの月日が経ったけど、私たちはあれからずっと、友だちだ。
そんな彼女がこの日ふるまってくれたのは肉じゃがと豚汁だった。先に出してくれたほくほくの肉じゃがを一人でつつきながら、美味しくて頬が緩む。あぁ、人が作ってくれるごはんを食べれるって、ほんとに幸せだよね。もし愛情の組成を可視化できるなら、そこには絶対、旨味成分も入ってると思う。そんなことを考えながら肉じゃがを食べていると、友人ができたての豚汁を持ってきてくれた。
それを食べようとすると、「ちょっと待って、食べる前に」と彼女は私を止める。BGMの音楽を消し、アレクサも沈黙し、部屋が静寂に包まれる。…なんだろう、何が始まるんだろう。ともかく私は、目の前のアツアツの豚汁を前にしておあずけをくらい、「待て」の犬のようにそこに座った。彼女が取り出したのは、一通の手紙だった。「読むね」と彼女は言う。豚汁の前に、手紙?しかも今?
私の頭の中に、どこかの誰かの結婚式の場面が浮かぶ。「お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとう……」それ以外に手紙を読み上げるべき場面を私は知らなかった。私、余命宣告でもされるのか?何かを叱られるのか?それともヤバい契約でも持ちかけられるのか?(友人に向かってなんと失礼な)
「おこめちゃんへ」
彼女のやさしい声で、静かな部屋に私の名前が響く。手紙の内容はわからない、でも私の名前を読み上げる彼女の声があまりにもやさしくて、内容を聞かずとも私の頭に浮かんでいたたくさんのハテナは消えていった。心から安心する声だった。
でも。でも、人に手紙を読んでもらうなんて恥ずかしくて、どんな顔をして聞けばいいのかわからなかった。私は思わず逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。私に優しくしたって何も出てきやしない、私は何も返せない、私は彼女をがっかりさせてしまうかもしれない……。そんな不安が心の中でじわじわと膨れ上がる。怖いのだ、人から善意や愛情を受け取るということが。
だから私は、恋愛でもいつもうまくいかない。私のことを一途に愛してくれそうな気配がする人を、私はいつも避けてしまう。愛されたいと願いながらも、愛される覚悟がなかった。愛は重いし、愛は等価交換で、少しばかり責任がつきまとう。私はなんの気なしに、自由に愛させてくれる人がほしかった。
私が愛するのはいつも自由でどこか余裕がある男たちで、そういう人は大抵私のことを真正面から見てはいない。彼らが余裕があるように見えるのは、私のためにそれほど多くの心のスペースを割いてはいないから。だから気楽。私は相手から大きすぎる愛をもらってしまう心配をせずに、自分が愛したいだけの量を、勝手に愛せばいいから。
でも、今日は。今日はちゃんと受け止めよう。彼女が私に差し出してくれた、温かい愛を。逃げずに愛を受け取って、ありがとうって言いたかった。甘んじて彼女に寄りかかって、今は少し支えてもらえばいいんだよ、わたし。私は彼女のことを大切に思っているし、その愛はいつかちゃんと彼女に返すことができるから、怯えなくても大丈夫。そう自分に言い聞かせた。自分を信じる勇気を持ちたかった。
そうして、思わず固く閉じそうになった心の扉をぐっとこじ開けて、彼女の話を聞いた。聞きながら、いつか彼女の前で泣いたときのことを思い出した。あれは多分5年前、夜の公園のブランコで私はメロンを抱えていて、なぜだか泣いていた。そんな記憶の断片だけが浮かび上がってきて、それ以上は何だったか思い出せない。でも、あのときも私は彼女の言葉で、蓋をしていた感情がうわっと溢れてしまったのだ。こんな大事なことをどうして忘れてたんだろう、今までずっと。
今、この文章を書きながら彼女の手紙を読み返している。あの日は恥ずかしくてあんまり頭に入ってこなかったけど、そこには彼女のまっすぐな誠意が綴られていた。人から手紙をもらったことは数えきれないほどあるけれど、こんなにまっすぐに、何度も繰り返し愛を伝えてくれる手紙は初めてだった。何度も読み返してその質感を確かめた。なんだか現実に思えなくて、その重さを確かめたかった。
彼女が作ってくれた豚汁は、ほんのり甘く、優しい味がした。ずるずると風邪を引きずっている弱った身体を温めてくれる、素朴で繊細な豚汁。愛媛出身の彼女が使うお味噌は、米麹の代わりに麦麹を使う麦味噌というものなのだそうだ。このまろやかな味噌が、豚汁の大根や玉ねぎ、ゴボウなどの根菜によく合って、素材の味がちゃんと、引き立っていた。
豚汁を食べながら、つい1ヶ月くらい前に別れた恋人が最後に作ってくれた甘くて濃厚なお味噌汁のことを思い出していると、まるで私の心の中を見透かすかのように彼女が言う。
「わたし、あれ正直悔しかったんだよね。なんであんな男の味噌汁なんか、って。」
(↓お味噌汁エピソードはこちら)
それを聞いていて、私はなんだか可笑しくなってしまった。彼女は私のことを想って、私の元カレにちょっと嫉妬してくれている。私の代わりに、元カレに腹を立ててくれている。「なんであなたのことを無下に扱ったあんな男にいつまでも心を砕いて、落ち込んでんの?ここに、私という人間がいてあげてるのに!」そう、言われている気がした。ほんとだよね。なんでなんだろうね、私も知りたいよ。
そんな熾烈で生々しい恋人などという人間関係とは無関係なところで私は今、友人から温かいごはんを恵まれて、エールを送ってもらっている。ここは安全で、穏やかで、春の陽だまりのように温かい。
そっか、私に欠けていたのは全力で安心できる場所だったんだな。恋人のことは心から好きだったけど、彼といるときの心はいつもどこか不穏な気持ちだった。それを隠すように、全部さらけ出して安心しているそぶりをしていた。心の底から受け入れられていないことを、私はしっかり感じ取っていたのだ。でも怖かった、そんな自分の不安な心を見せることすら。
元カレのごはんだって、あったかくて、やさしくて、わたしはたくさん救われていた。でもその温もりはもう私の手の内にはない。その思い出を持ち続けていくことが無意味だとは思わないけれど、遅かれ早かれ手放すべきときはやってくる。もう大丈夫、と心から思えたらきっとゆるやかに忘れていく。今だってもう思い出せない。あのお味噌汁の匂いを。わたしの脳の海馬に永遠に記憶されているはずの、そのやさしかったのであろう香りを。
もう、考えるのはやめよう。ここでは、彼女の隣では、わたしは心から安心していいんだから。そう思って、豚汁を一生懸命すすった。ごはんを作ってくれる人がいる限り、私はどんなに落ち込んでいても、何度でも希望を持ってしまう。もう人生やめたいって思うほど苦しくても、美味しいごはんが食べれるならもうちょっと生きてもいいかな、って。
「私は、あなたが幸せなときも辛いときも、いつでも、何度でも、このお味噌汁を作ります」
手紙の最後に書かれていたその言葉が、今日も私に勇気をくれる。信じたい言葉ではなくて、信じられるその言葉。今度彼女がうちに遊びにきてくれたら何をごちそうしようかな。そんなことを考えながら、夜のバスに揺られて家に帰った。ほんとうはちょっと不器用な彼女の、心のこもった豚汁で心が芯からぽかぽかと温まって、その日のわたしは心地の良い眠りに落ちた。
いつか彼女がくれた言葉を思い出す。
大丈夫。
わたしたちはいつだって、強くてうつくしい。
-こじれた風邪、あの子の豚汁