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「共感してあげてるのに」「もう共感したくない」と思った時に。


NVCを学んで共感の力を体感した後に、
「このあたたかな感覚を分かち合いたい。」
「あなたの理解や癒しに貢献したい」
と強く願い、少し力みながら共感することもあるかもしれません。

そして、その愛や善意が大事な人に受け取ってもらえなくて、
悲しさや怒り、非難の声が湧いてくることがあるかもしれません。


もしくは、「相手に理解や癒しが起こること」を強く期待して、共感することがあるでしょうか。そして、期待する結果(癒しや理解)が起こらなくてがっかりしたり、無力さを感じることがあるかもしれません。

共感のもたらすあたたかさや希望を感じると、つい「NVCが、共感が良いもの」と固執してしまい、再び「いい、悪い」の二元論の世界に苦しめられたりします。

私自身は、このようなことを一通り経験してきて、NVCという手段に執着するがあまり、生まれた葛藤や離れた関係性がありました。その経験から、自分と相手を本当に大事にするために意識していることがあります。

NVCの世界を押し付けず、この希望にお誘いする為に

 
「私にとってこれが凄く大事なように、あなたにとってはそれが大事なのだ。」という、互いの命への信頼や尊重を忘れずに生きるために、役立つかもしれないことをまとめてみました。



⑴ 「もう共感したくない」と思っている時には、自分の中のあらゆる声に、差別することなく耳を傾けよう

「もう共感したくない」と思っている時、もしかしたら、あなたの中で「共感したい」という声と「共感したくない」という声が内側でかち合っていたりするでしょうか。

「共感しようよ」という声が優勢になりがちで、「共感したくないよ」という声が、あなたの中でないことにされたり、無視されたり、ないがしろにされたり、非難されているかもしれません。

そこには、「共感することは素晴らしいこと、いいことだ」などという考えがあったり、「共感してあげられない私は優しくない。優しい人でありたい」などという評価や願いがあるのかもしれません。

どちらの声も、あなたの中にあるすごく大事な声です。それぞれが十分に聞かれた先に、どちらもの声が大事にされる統合的な道が見つかってきます。

そこに向かうならば、まずは自己共感をすることをおすすめです。
でも自己共感したくない時、そこに難しさを感じる時には、エンパシーバディやオンライン共感サークルなどで共感してもらうこともできます。

統合的な道に向かうこと自体求めていない。もう、何もかもいやだ。疲れた!というときは、その声と共にただ存分に休みましょう〜

もしも、少し立ち止まって自己共感してみようかな。自分の中に「共感したい」という声と「共感したくないな」という声があるな。と思ったら、以下を参考にそれぞれに共感してみましょう。


<共感したい / したくない の両方のパーツに共感する>

まずは「共感したくない」という声に耳を傾けてみます。
どんな気持ちでしょうか。疲れ果てていたり、うんざりしていたり、イライラしているでしょうか。
もしかしたら休息が必要だったり、みてもらうこと、認めてもらうこと、理解、スペースやケアが必要だったりするでしょうか。もしくは、「こんな自分はいやだ」と思うパーツも含めた全ての自分を受け入れたい、受け入れてほしいと望んでいるでしょうか。

(あなたの中の「共感したくない」勢に聞いてみてください。ちゃんと彼らが声を聞かれたという感覚を感じられるまで、ぜひ聞いてみてください。)


落ち着いたら、もう片方の「共感しよう」という声にも耳を傾けてみます。
どんな気持ちでしょうか。頑張ろうと震え立っていたり、興奮していたり、ウキウキしていたりするでしょうか。
もしかしたら希望や、あたたかさ、平和などを求めているのでしょうか?もしくは受け入れてもらうこと、認めてもらうこと、お互い様であることなどを必要としているでしょうか?

(あなたの中の「共感しよう」勢に聞いてみてください。ちゃんと彼らが声を聞かれたという感覚を感じられるまで、ぜひ聞いてみてください。)


このどちらもの声を、同じように大事に聴き、大切な存在であると認めた先に、何か新しい感覚や、本当に自分が願っていることが見つかれば、是非その感覚を味わいましょう。


⑵「共感をしよう」という時に、自分の意図を確認する


ということで、今感じている残念さやモヤモヤしたものを十分に聞くことができたならば、「今後どのようにすれば、自分と相手を本当に大事にすることができるのか、無理して共感するのではなく、喜びからそこに進めるのか」という問いに頭を巡らせてみましょう。


私自身は、誰かに共感しようとする前兆を自分の中で感じた時に、
自分に対してこのような問いかけをしています。

「共感すること」を通じて何か期待していること(見返り)があるか?
自分を犠牲にしたり、歯を食いしばって共感しようとしていないだろうか?
「共感してあげなきゃ」と頭から動こうとしていないだろうか?


もし、共感することを通じて「相手から受け入れられること、認められること」「共感の素晴らしさを理解してもらうこと」「私にも共感を返してもらうこと」「すごいと思われたい」「円滑に話を進めるために、とりあえず共感しておきたい」など、何か期待していることがあるとしたら、(もしくは「共感しないことによって何かが起こるのでは」と恐れているとしたら)

「共感する」という手段を使って、自分の何か必要なことを満たそうとしているのかもしれません。だとしたら少し立ち止まり、自己共感してみます。

例:「相手に受け入れて欲しいんだな、それで安心を感じたいんだ。」
  「互いに共感し、共感されるようなな関係性を作りたいんだな。
  それによって深い繋がりや安心、サポートやケアを満たしたいんだ。」
  「話をスムーズに進めたいんだな。と同時に、お互いの繋がりを
  大事にして進めたいから、焦りと難しさを感じてもいるな」
  「話を聞かないと、相手との繋がりが失われてしまうのではと怖いな。
   この関係性が大事だからどうしようかと途方にくれているな」

このように、自分が何を求めているのかに繋がった後、
改めて「本当に共感するのか(したいのか)」選択します。

オススメは、「相手に寄り添いたい、あなたをもっと知りたい」
という愛や思いやりの質感から共感をすることです。

もし、何か他の期待を満たすために共感をする場合は「相手のために共感をしてあげている」のではなく、「自分のために共感をしているのだ」ということを、自分の中で確認しましょう。


⑶ 共感することによって起こるインパクトに執着しない

(特に家族やパートナー、友人など近い関係にある)人に対して、何かをしてあげた時に、元々はそれが喜びや貢献の気持ちからしたことであっても、それがどう受け取られるかについて強い期待を持ち始めることがあります。

「こんなにやってあげたのに、なんで喜んでくれないの?」
「なんでわかってくれないの?」という声がある場合は、そういった期待が大きくなっている証拠かもしれません。

そんな時には「自分が期待していたこと」が
どれだけ自分にとって大事なのか、感じてみます。

例:「私があなたにどれだけのエネルギーを注いでいるか理解して、
   その価値を承認(感謝)して欲しいんだな。」
  「私が大事に思っていることに、興味を持って欲しい、
   それを共に分かち合いたいんだな。だからイライラしているんだ。」


その上で、意図とインパクトのギャップがあることを受け入れてみよう、と試みます。

例えば、あなたがウェイターで、お客さんにお水を持って行った時に、
「お水は今いらない」と言われたとします。

もちろん喉が渇いていたらお水が欲しいし、欲しくない時もあるので、「あ、今お水いらないんだね」とフラットに受け入れやすいのではないでしょうか。

このように、「お水」という命に関わる大事なものであっても、相手の状況やタイミングによって必要な時とそうでない時があります。

「共感」も同じです。相手が効率性やスムーズさなどを必要としている時には特に、必要と感じにくいものです。相手にとって、今必要でないものを渡しながら「必要に決まってんだろう!ゴラア!」と叫んでも、お互いの溝は深まっていきます。

私はこれを渡したいけれど、相手はこれが欲しいだろうか。
この共感があなたにとっても役に立つものだといいけど、どうかしら。
もし今、この人にとって必要でなさそうならば、またの機会にしよう。

そんな風に、相手におこるインパクトへの期待を手放せると、自分の居心地のいい形で関わりやすくなります。

私の中で、自分を犠牲にして頑張って貢献しようとしていないかしら。
喜びからやりたいと思っているかしら。恐れからやりたいのだろうか。

そんな風に、自分がどんな質感から「共感しようとしている」のか確かめること。「共感したくない」時には、その声に十分耳を傾け、休むこと。をおすすめします〜


私自身は今、「あなたが手を伸ばすならば、私はここで待っているよ。」というような、信頼と思いやりを両立する感覚を目指しているところです。
この動画のパパのような感じです♡ 


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