2025書き初め

 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 オジサンは、年越しの瞬間にジャンプする体力もなく、寒い中初詣に行く気力もなく、ただテレビの前でぼうっと座り、ジルベスターのカウントダウンを見るのが習慣になっております。年を越すとは言いますが、最近の年末年始について、これまでの一年の終わりや新しい一年の始まりを意識するというよりは、一年の巡りを意識するようになったように思います。また、新しいことに挑戦したいという気概も僅かに残っている一方、むしろ安定した、無理のない一年を過ごすことができればよいと思うようになっているのです。思考の草食型人間。そうして螺旋階段を一段一段下るように、自らを減価償却させながら、同じ景色の少しずつ沈みゆく景色を見ることに安住してしまうのであります。そんなことを特に意識させられるのが元日ですので、今日は「巡る」ということをキーワードにしつつ、2024年を振り返り、2025年の目標を定め、随想してみようと思います。

 新年必ず行うことの一つに、西暦の素因数分解があります。受験というものを経験してしまった名残かもしれません。2025年は3×3×3×3×5×5となります。今年はたくさんの問題が作れそうであり、受験生としては対策の立てにくい年になりそうですね。一方で昭和100年という言い方もあるようで、100を用いた出題も予想されるところです。人類学的にはちょうど100年前、マルセル・モースによって「贈与論」が著され、近代的人類学が本格的に幕を開けた年になります。ですので、人類学受験者は「贈与論」を読んでおくことをお勧めします。

 この近代的な人類学とは何かといいますと、年単位での長期的なフィールドワークとそれを記述した民族誌が特徴です。人類学は始め、黒人が人間であるかを判別する、ある民族と西洋人の比較から民族の発展度合いを測るといったように、植民地支配に加担した暗い歴史を持つ学問でした。ところが、マリノフスキーという人が短期間の調査を行うためにフィールド(トロブリアンド諸島)に赴いたとき、第一次世界大戦が勃発し、帰ることができなくなりました。そこでマリノフスキーが仕方なく始めた形式の調査が、長期間にわたるフィールドワークだったのです。この成果は「西太平洋の遠洋航海者たち」として1922年に出版され、大きな反響を呼びました。同書では「クラ」と呼ばれる貝を用いた交易について記述され、ヨーロッパで主要である貨幣経済の批判的見直しが試みられました。このような背景のもとで、今から100年前の1925年に、モースによって「贈与論」が出版され、近代的人類学が形作られていったわけです。

 およそ100年後、感染症の影響はフィールドワークにも大きな影響を及ぼしたものと思われます。私はすでにアカデミックを終えていたので、人類学の現在については知りませんが、100年前に起きた危機を契機として一つの学問の形式が生まれたのと同様、今回の感染症を経た世界にどのような変化が生まれ、結実していくかということは注視する必要があると考えます。一方で、新しいものだからといって安易に飛びつくのも危険であり、「まあ所詮は100年前の繰り返しじゃないか」と鷹揚に構える態度も忘れないようにしたいと思うのです。

 贈与と貨幣経済の話で行きますと、昨年私が始めた数少ない取り組みの一つが株式取引でした。制度改悪の恐れと60歳まで引き出し不可の間に起きる円の価値を加味し、イデコは行わず、NISAを選択。資産が半分になっても動じない範囲で、世界経済に連動したつみたて投資、桐谷さんを参考にした成長投資を行うとともに、どうなっても良いお金を少額用意し、こちらは積極的な投資を行いました。結果的に今年の経済は8月の瞬間的な暴落を除いておおむね好調であり、投資を行った普通の人並みの利益を手にすることができたわけです。衰退する自分は、衰退する社会に抗わなければならないという、消極的な積極性、草食的な肉食性の必要性を印象付けられた場面となりました。

 収入については今述べたとおりでして、加えて仕事もポクポクとやっておりますので、安定的です。一方の支出に関していえば、1年に1度の海外旅行を除いて趣味がないという問題があり、家賃補助の影響もあり、支出は少ない方と思います。では何に時間を使っているのかと聞かれ返答に窮することが多かったことから、この1年間、30分ごとに何を行ったかを記録してまいりました。どうやら睡眠は7時間平均で行っていること、勉強時間はそこまで確保できていないことなどが分かってきましたが、残る時間はYouTube視聴に費やしているというのが明らかになった次第です。普段ですと、エガちゃんねる、フジナッツ健ゲームチャンネル、機場空論、神風クラッシュ、バーバパパあたりがメインの視聴先でありまして、マイナーどころが多いうえに、婚活ではどれも使えないラインナップとなっております。実際はこれを超えて「あなたへのおすすめ」をダラダラ見ている時間が非常に無駄でありまして、このような時間は減らしていきたいものです。

 何か趣味も作りたいと思いつつ、まあ東京に戻るかもしれんしな、趣味がなくてもやっていけているしなと、ひたむきに億劫なのです。やりたいことリストを以前ある年始に作ってみたことはあります。そうしたところ、100の項目のうち、彼女がいることを前提とした行ってみたい、やってみたい項目が30くらいに及び、そして彼女ができなかったために、途轍もなく達成率の低い一年が誕生してしまいました。それ以来目標を100個挙げることは止めました。健康に悪い。やっぱり新しいことに期待しない平坦な下り坂の人生が安パイなのであります。

 なお、リストを100作りますと、そのうちいくつかはモノを買うことで達成できる項目になります。それだけでも目標にすればよいという意見があるかもしれませんが、我が家は原則として汚いため、これ以上モノを持ちたくないのです。今は年末大掃除の甲斐あって、洗面台は白く、大部分の床は見え、ゴミは出されていますが、モノを買ってしまってはゴミが増え、床が狭くなります。精神的ミニマリスト、物理的マキシマリストを家主に迎え、大阪の居住空間はもはや悲鳴を上げているのであります。

 最後に結婚についてでありますが、もうこれが面白いほど進んでいない。左環指についても、エンゲージリングが先か、ヘパーデン結節が先かという事態になっております(このネタ分かる人いるか?)。

 たしかに家庭やマイホーム、車を持つことが社会的なステータスだったのはかつての話です。たとえば高級車に乗る人のイメージは、かつてはお金持ちでしたが、今は車好きに変わりました。同様に結婚は必ずしもステータスではなくなり、必須ではないものと言われるようになりました。思うに、サブスク時代にあって、多様性というぼんやりした語をそれぞれが都合よくぼんやりと使って、バラバラに好きなものを推していく。その中で価値観の合う(これもぼんやりした語です)人が居れば一緒になり、あるいは子供というクルーが増えていく。趣味を、愛を、子供を次代に引き継ぎ、巡らせていきながら、まさにそれぞれが遠洋航海者のように、自分の人生をコーディネートして、操舵していく。結婚とは目的ではなく航海の一部分となったのであります。

 しかし私は結婚できていない。特段の推しもいない。趣味もない。テトラポッドのように、動くこともせず、与えることもせず、毎日同じ波をかぶり、一人でグルグルと思索だけを巡らせている。結婚できていないという焦りより、航海できていないという焦りが大きくなってきた2025年です。よって、「本物はあなた」であることはすでに明らかである状況にあって、2025年の目標を「『わたしは偽物』ではなく、『わたしも本物』と言える自信をつけること」としたいと思います。知らんけど。

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