書評:『喜べ、幸いなる魂よ』
昨日(2024年1月14日)開催された「文学フリマ京都8」で、「翻訳者のための書評講座」の同人誌『翻訳者、豊﨑由美と読んで書く』が発売されました。第1~4回までの講義録+コラムをまとめたもので、講座の雰囲気と内容がよく分かる本になっています。
同人誌には、講座第3回の際に提出した『喜べ、幸いなる魂よ』に関する拙評も収載されておりまして、拙評に対して頂いたご意見や改訂のアドバイスが載っています。そこで今さらではありますが、講義で頂いたご指摘を取り入れて改稿した書評を掲載したいと思います。
[改訂版]
書評:『喜べ、幸いなる魂よ』
小説『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀著、第74回読売文学賞受賞作)の舞台は、十八世紀のフランドル地方、現在のベルギー西部の都市シント・ヨリス。亜麻糸商人であるファン・デール家の人々の姿を描いた作品だ。
物語は、ファン・デール家の双子の姉で数学の天才ヤネケと、養子として共に育てられ、後にファン・デール商会を継ぐヤンを軸に語られる。思春期の二人が関係を持つようになった頃、ヤンとヤネケの性格と生き方を表すこんな描写が出てくる。「人が生きていくには一片のパンがあれば充分」と考える質実剛健なヤンに対して、「たかが食卓を南太平洋や新大陸の荒野ほどの広大な未踏査の領域に変えてしまう」ヤネケ。ヤネケがヤンの子を身籠った後、こうした性格の違いが二人の進む道を定めていく。
養親に許しを乞いヤネケを妻に迎え、亜麻糸商人として身を立てようと決心するヤン。しかしヤネケは子供を里子に出し、自分は半聖半俗の女性たちが働きながら集住する「ベギン会」に移ってしまう。ヤネケの唯一の関心は、数学、なかでも確率論に没頭することだったからだ。ベギン会で暮らし始めたヤネケは、弟テオの名を借りて論文を発表し、本の出版も目論む。ファン・デール氏が倒れたことで生家は危機に陥るが、戻って欲しいというヤンの訴えをヤネケはのらりくらりと退け続ける。
その後のベギン会におけるヤネケの活躍は目覚ましい。自らの基礎教育の場でもあったベギン会で教師となって地域の女子教育に携わり、会の帳簿を見る副院長を引き受け、やがて会の主要な収入源であった亜麻糸の紡績を自動化するため紡績機を導入する。これが、シント・ヨリスでの産業革命につながる動きであったことは、ヤンの空想という形で仄めかされている。また、本の執筆は確率論にとどまらず、英語小説のフラマン語訳、無神論ぎりぎりの神学の書籍や確率論を応用した経済学の本なども著し、早逝したテオ亡き後は匿名作家やヤンの名義で出版を続ける。これほど自由奔放に才能を発揮し地域社会に貢献したことを考えれば、ヤネケが家庭を守る主婦向きでなかったことは明白だろう。
ここで、ベギン会について触れておこう。巻末の覚書によれば、十二世紀から十三世紀に掛けて欧州を席巻した宗教熱が生み出したフランドル地域のベギン会は、信仰熱心な単身女性たちが自活して暮らす共同体として始まった。ベギンの身分は修道女ではなく一般信徒であり、社会とも断絶されてはいなかった。地域社会の福祉業務を担い、また経済規模も市内の同業者を圧迫することもあったという。さらに、ベギン会のあった地域の女子識字率は相対的に高く、女性への高等教育の普及に関係したと考えられている。
時代や環境からの圧力をものともせず自らの運命を切り拓いていったヤネケに対して、こうした圧力に翻弄されたのがヤンだ。ファン・デール氏の病とテオの死により、ファン・デール商会の後継者となったヤン。一家を守るために、ヤネケの望みも汲んで、意に染まない結婚を繰り返す。提携先であり姻戚関係でもあったクヌーデ家との事実上の統合後も舵取りをし、最終的には市長に就任させられてしまう。四十年もの月日が流れ、ヤネケと付かず離れずの関係を続けてきたヤンの本当の願いはただ一つ、ヤネケを妻に迎えること。商売も名誉も地位も手に入れたヤンだが、この願いだけがどうしても叶わない。
しかし終盤、シント・ヨリスへのフランス軍の進駐により、二人の運命が大きく変わるであろうことを暗示して物語は終わる。その後の欧州の歴史を考えれば二人が安穏に後半生を送れたのか定かではないが、ヤンは長寿を全うしたことがさりげなく作中で仄めかされているのが救いだ。
巧みな人物造形と共に、臨場感溢れる情景描写も本作の魅力。近代史の大きな転換期を生きた市井の人々の息遣いを感じながら、十八世紀にタイムスリップしたような感覚を味わえるだろう。
(本文:1,597字)
(想定媒体:一般書評ブログ)
[講座でいただいたご指摘と改訂した箇所について]
・5段落目:提出稿は最後にベギン会の説明を入れて締めにしていた→「落ち着きはいいけれど、史実を説明することで硬くなる。最後が硬いと印象全体が硬くなるので書評の途中で入れた方がよい」というご意見の下、説明を5段落目に挿入。
・最後の段落:「最後にもう一つ締めの文章があるとよかった」というご意見があったのと、前述の通りベギン会の説明で締めていたため新たに締めを加える必要があり、最後の段落を追加。
さらに、
・「器」という言葉の使い方を間違えた(恥)ことに提出後に気づいたので、これを機に訂正。
・著者名を入れていなかったことに後で気づいたのと、受賞情報も加えた方がよいと思い、追加。
・上記の変更を行うにあたり、文字数を規定の1,600字以内に収めるためと、その他の手直しをするために削除、修正。
以下に、同人誌に収載されている元の書評を掲載します。なお、『翻訳者、豊﨑由美と読んで書く』はご好評につき増刷予定(2024年1月現在)です。お求めはこちらのリンクより:https://bit.ly/3OYiPlR
[元の書評]
『喜べ、幸いなる魂よ』は十八世紀のフランドル地方、現在のベルギー西部の都市シント・ヨリスを舞台にした、亜麻糸商人であるファン・デール家の人々の姿を描いた小説だ。
物語は、ファン・デール家の双子の姉で数学の天才ヤネケと、養子として共に育てられ、後にファン・デール商会を引き継ぐヤンを軸に語られる。思春期の二人が関係を持つようになった頃、ヤンとヤネケの性格と生き方を表すこんな描写が出てくる。「人が生きていくには一片のパンがあれば充分」と考える質実剛健なヤンに対して、「たかが食卓を南太平洋や新大陸の荒野ほどの広大な未踏査の領域に変えてしまう」ヤネケ。ヤネケがヤンの子供を身籠った後、こうした性格の違いが二人の進む道を定めていく。
養親に許しを乞いヤネケを妻に迎えて、亜麻糸商人として身を立てようと決心するヤン。しかしヤネケは子供を里子に出し、自分は半聖半俗の女性たちが働きながら集住する「ベギン会」に移り住んでしまう。ヤネケの唯一の関心は、数学、なかでも確率論に没頭することだったからだ。ベギン会で暮らし始めたヤネケは、弟テオの名を借りて論文を発表し、本の出版も目論む。ファン・デール氏が倒れたことで生家は危機に陥るが、戻ってきて欲しいというヤンの訴えを、今は無理だ、忙しいとヤネケは退け続ける。
その後のベギン会におけるヤネケの活躍は目覚ましい。自らの基礎教育の場でもあったベギン会で教師となって地域の女子に教育を授け、会の帳簿を見る副院長を引き受け、やがて会の主要な収入源であった亜麻糸の紡績を自動化するため紡績機を導入する。これが、シント・ヨリスにおける産業革命につながる動きであったことは、ヤンの空想という形でそれとなく示されている。また、本の執筆は確率論にとどまらず、英語小説のフラマン語訳、無神論ぎりぎりの神学の書籍や確率論を応用した経済学の本なども著し、早逝したテオ亡き後は匿名作家やヤンの名義で出版を続ける。これほど自由奔放に才能を発揮して地域社会に貢献したことを考えれば、ヤネケが家庭に収まる器でなかったことは明白だろう。
時代や環境からの圧力をものともせず自らの運命を切り拓いていったヤネケに対して、こうした圧力に翻弄されたのがヤンだ。ファン・デール氏の病とテオの事故死により、ファン・デール商会の後継者となったヤン。一家を守るため、そしてヤネケの望みを汲んで、意に染まない結婚を二度も繰り返し、提携先であり姻戚関係でもあったクヌーデ家との事実上の統合後も舵取りをし、最終的には市長に就任させられてしまう。その間四十年もの月日が流れ、ヤネケと付かず離れずの関係を続けてきたヤンの本当の願いはただ一つ、ヤネケを妻に迎えて一緒に暮らすこと。商売も名誉も地位もすべて手に入れたヤンだが、この願いだけがどうしても叶わない。
しかし終盤、シント・ヨリスへのフランス軍の進駐により、二人の運命が大きく変わるであろうことを暗示して物語は終わる。その後の欧州の歴史を考えれば二人が安穏に後半生を送れたのか定かではないが、ヤンは長寿を全うしたことがさりげなく作中で仄めかされているのが救いだ。
最後に、ベギン会について触れておきたい。巻末の覚書によれば、十二世紀から十三世紀に掛けて欧州を席巻した宗教熱が生み出したフランドル地域のベギン会は当初、信仰熱心な単身女性たちが自活して暮らす共同体として始まった。ベギンの身分は修道女ではなく一般信徒であり、一般社会とも断絶されてはいなかった。地域社会の福祉業務を担い、また経済規模も時には市内の同業者を圧迫する勢いであったという。さらに、ベギン会のあった地域の女子識字率は相対的に高く、女性への高等教育の普及に関係したと考えられている。
(本文:1,534字)
(想定媒体:一般書評ブログ)
※表紙画像はKADOKAWAの『喜べ、幸いなる魂よ』ページより。
https://www.kadokawa.co.jp/product/322102001022/
改訂版について:講座生は提出した書評を講座終了後、任意で改訂を行いnoteにアップしています。各回の改訂版が掲載されているページはこちらです:https://bit.ly/48X1Jgx