先生と豚⑦
銀行にも当然ながら関係者専用の出入口がある。いわゆる裏口である。侵入するとすればこれほど好都合な道はないだろう。入館証さえあれば、そこを突破するのは容易い。金庫が破られることを想定していないせいか厳重な警備などは特にない。
柿崎はそのことについてひと言――馬鹿だねぇ、と感想を述べた。
こちらとしてはやりやすいが一般論で言うならば人様の金を預かっているというのに、その自覚と警戒心が足りないのではないか、ということらしい。紅林は行動と意見が矛盾している辺りが柿崎らしいとそのとき感じた。
銀行の裏口が見えるか見えないかのところで紅林はズボンのポケットに手を入れ、メモ用紙があることを確認する。そして左胸のポケットを軽く触り、仮入館証があることを確認した。
よし――と紅林は呟き頷く。
(いよいよだ……)
高鳴る心臓の音が緊張のためか高揚のためか紅林には分からなかった。
紅林は裏口に辿り着くと柿崎に言われた通りに無言で入館証を警備員に見せた。いまの紅林はスーツ姿だから多少の違和感はあってもこの暗がりでは銀行員だと思われるはずだ。
(というそう思われなきゃ終わりだよ)
もちろん素顔を知られるわけにはいかず簡単な変装もしている。眼鏡と付け髭だけでも印象は変わったが、目立つように口元につけ黒子と鬘もかぶった。鬘は変装よりも髪の毛を落とさないためという意味合いが強い。高校生に髭をつけても似合わないだけだと紅林は思っていたが、上手い具合に溶け込んでいる。もともと老け顔だからだと柿崎に言われ、紅林は釈然としなかった。
しかしいまは、老け顔といわれてもいいから騙されてくれと祈るような気持ちで警備員の行動を伺った。
警備員は紅林同様無言で入館証を見ると、すっと道をあけてくれた。紅林は安堵の息を飲み込み、軽く頭を下げて足早に銀行のなかに入った。
裏口から入ってすぐのところに今度は受付という関門が待ち受けていた。ここでも紅林は仮入館証を無言で提示する。
受付に座る初老の男はそれを一瞥して、ガラス越しに紅林を見た。警備服を着ているあたり、裏口の受付には行員ではなく派遣されてきた人材を使っているのだと知れた。
「こんな時間に、なんです?」
銀行は本来、窓口が夕方に閉まってからその日の決算を行うが、書類整理などの残業はあまりなく深夜に行員がいることは少ない。残業がないというと語弊があるが、要は夜に銀行を完全に閉めるために行員は追い出されてしまうのである。
余程のトラブルがない限り夜に銀行内に行員が残ることはない。しかし誰ひとりいなくなると事故が起きたときの対処が困難になり、銀行の信用が揺らいでしまう。それを避けるため夜間には雇われた警備員が数人配置されることになった。
――あれはただの飾りだよ。
そう柿崎は紅林に説明した。
トラブルが起きても大抵は行員が数人連絡を取り合って対処する。そもそも派遣された素人に処理できる問題など銀行にはない。
つまり、受付に座る警備員は毎夜、退屈に過ごしているということになる。
(そこに、見慣れない銀行員らしき人物が来たら怪しまれて当然だろうな……)
紅林は受付からの不審者を見るような視線にどうにか平静を装って答えた。
「突然すみません、明日までに提出する書類を忘れてしまって。ついさっき気づいたものですから」
「忘れ物?」
「はい、駅前の飲み屋で先輩と飲んでいて気づきまして。酔いも醒めてしまって、とりあえず書類を取っておこうかと」
つい余計なことを言い出してしまいそうな口を抑えて、紅林は覚えてきた内容だけを小出しに話す。
「とりあえずってたって、もう終電もないでしょう」
まぁそうなんですけど、と紅林は苦笑する。
「先輩にももう帰ればいいって言われたんですけど、気になると眠れない性質ですし、明日必要な書類を忘れた自分の責任ですから。今夜はホテルにでも泊まりますよ」
ふーん、と初老の男は視線を仮入館証に落とす。それから日誌のようなものをおもむろに取り出すとその番号を控えた。
「もう消灯してるから暗いですよ。懐中電灯でも持っていきますか」
入館証を紅林に返しながら男は訊く。
紅林は既にその用意があったがここで断るのも不自然だと、丁寧に礼を言い懐中電灯を警備員から受け取る。
「気をつけて」
初老の男は言って紅林を見送った。
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