先生と豚13
「捕まるなんて聞いてなかったぞ」
本に埋もれた六畳の部屋に紅林の怒気のこもる声が発せられた。
足の踏み場のないほど書物が積まれた先に座卓とその前に座り込んだ柿崎の姿が見える。窓からさす陽光にそれは黒く浮き上がっていた。
柿崎は振り向かずに笑った。
「本当にね、僕も驚いたよ。でも良かったじゃない。刑務所のなかを体験できるなんて、普通ないよ」
紅林は心底愉快そうに言う柿崎に舌打ちし、部屋の入り口に立ったまま男の背を見据えた。
「なに言ってんだ。洒落になんねーよ。それに刑務所じゃなくて少年院だった。ウザい精神科のセンセイに生ぬるい説教されて、頭おかしくなりそうだったぜ。何もしてないのにさ、万引きなんて恥ずかしい行為なんだよ、そんなことしても何も変わらないよ、いいかい、もうやっちゃいけないよ、だと」
柿崎は声を上げて笑った。
座布団の上で体の向きを変える。
にやにやと意地の悪い笑みが紅林をとらえた。
「でも何もしてないことはたいだろう。もうやっちゃいけないよ?」
精神科医の真似のつもりなのかもっともらしく声をかける。
「誰かに唆されなければな」
紅林は鼻で笑った。
「柿崎センセイ」
嫌味を込めて言ったつもりだが柿崎は涼しい顔で笑んでいる。やりにくいな、と紅林は思う。いつもそうだ。何を考えているのか分からない上、こちらが挑発めいた行動をとってもどこ吹く風で受け流してしまう。そういう輩が一番やりにくい。
思えば柿崎と出会って半年足らずだが何かにつけて紅林は相談を持ちかけていた。今回もそうだったな、と改めて思う。
ところで、と柿崎が言う。
「今日はどうして僕の家に来たんだい? せっかくの日曜日なのに」
柿崎は言葉尻を濁したが、それが紅林を気遣って言ったものではないことは明らかだった。平たく言えば、何しに来たんだこの野郎こっちはお前みたいに暇じゃないんだよ、ということだろうと紅林は解釈した。
「何しにって。決まってるだろ先生。約束してた分をもらいに来たんだよ」
でなければこんなボロアパートに来るか、と続けようとしてやめた。柿崎の真似をして言葉を口にせずに済ませる。
ああ、といかにも今思い出したように柿崎は声を上げ、積まれた本の一部を指差した。どの山を差しているのか紅林には分からなかった。
柿崎はにこりと人好きのする笑みをひとつ浮かべる。
「君が読んでみたいって言ってた『乱歩全集』そこの、君の足元から左に三つ目の山。表紙が見えてるだろ。買っておいたから好きに持ってくといい」
確かに柿崎が差した場所に乱歩全集第一巻が顔を覗かせていた。
が、だから何だと言うんだ――紅林は口をへの字に曲げた。
「それはどうも。で、約束してた方は?」
柿崎はにこりと笑ったまま答えなかった。
先生、と紅林は低い声で追及した。
「まさか、あんだけ働かせておいて裏切る気じゃないだろうな」
「そんな事言われてもね、君に必要な分は渡したじゃないか。ちゃんとお母さんも手術できたんだろ」
「あれっぽっちで済ます気かよ」
柿崎は苦笑した。
君ね、とどこか呆れたように息を吐く。
「先月、血相変えて準備室に飛び込んできて、あんな大金俺に用意できる訳がない、雑用でも何でもするから貸してくれって僕に相談してきたのは誰だったか、覚えてる?」
紅林は一瞬言葉に詰まる。ふいと視線を反らし、あのときは、と言いかけ口をつぐむと、唸るように息を吐き出した。
「……その後、約束した金額は、手術の費用の何倍もあったはずだよな」
その言葉に柿崎が子供のように口を尖らせた。
柿崎はよくこうした仕草をする。そのたびにその年で可愛い子ぶられても気持ち悪いだけだ、と紅林は思う。
「だから、言ってるでしょうが。乱歩あげるからって」
柿崎の軽い口調に紅林は戦慄した。
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