見出し画像

先生と豚⑩

 甲高い機械音が鳴った。留守電の録音開始音に似ていると紅林は思った。同時にこの音がエラーを表していたら終わりだなとも考える。
幸い、予想に反して扉のロックが外れる音が重々しく響いた。同時に空気が勢いよく漏れ出すような音がした。
(開いた……!)
 紅林は厳ついドアノブを思い切り引いて金庫のなかを見る。非常灯の明かりがついた凡そ二十畳ほどの空間には鉄製の棚にズラリとアタッシュケースが並び、その横に砂袋が積まれていた。砂袋のなかに何が入っているかは考えるまでもなかった。
紅林はいったん金庫の外に出て時計を確認しつつ急いで鞄を開けた。
中身を出そうと身を屈める。
突然、肩を掴まれ強引に引き寄せられた。
「……!」
紅林は声も上げられず、尻餅をついた。
見上げた先には見知らぬ男が、警備服を着て立っていた。顔の半分がマスクで隠れていて表情は分からない。
紅林は文字通り固まって動けなかった。
しまったと思う気持ちも、見回りの警備員のことを念頭に置いてなかった自分を責める気持ちも、頭のどこかにあったがそれを意識する余裕はなかった。
知らぬ間に呼吸が浅く早くなっている。
男が、すっと手を伸ばす。
紅林は思わず目をつむった。
「すまん、遅れた」
そう男は言った。
は、と紅林は音なき声を出す。
警備服姿の男は紅林の頭をぽんと軽く叩き、腕を引き寄せ紅林を立たせる。そして胸ポケットから豚のキーホルダーを取りだし紅林に見せた。
「少し手間取った。何とか間に合わせたから許してくれ」
「あんたが……」
男は頷く。
「さ、急ごう。柿崎から連絡が入った。あと十分ほどもたせられるそうだ」
言って男は素早く金庫内に入り、軍手を装着して砂袋の山に手をかけた。それを見、紅林は弾かれたように我に返ると改めて鞄に詰められたものを取り出す。
折り畳み式の台車、黒いごみ袋、軍手。
(ここからはスピード勝負だ)
 紅林はまず軍手をして懐中電灯を拭いた。そして台車を組み立て協力者が運び出した砂袋を乗せる。折り畳み式は強度が弱く、一度に運べるのはふた袋が限界だった。
走って業務用のエレベーターに向かいスイッチを押す。この時間に使う者は誰もおらず、すぐに扉は開いた。紅林は砂袋をふた袋とも扉の真ん中に置き時間が経っても閉まらないようにする。金庫まで戻り、次のふた袋を乗せる。時計を一瞥すると三分が過ぎていた。
 扉を閉められずにいるエレベーターに新たに持ってきた砂袋を放り込む。意外と重みがあって時間がかかった。それをもう一度繰り返すと金庫を開けてから八分が経過していた。
 急げ、と後ろから協力者が残りひとつの砂袋とゴミ袋の束を抱えてエレベーターに乗り込む。
 紅林は金庫に戻り、なかを素早く確認して重い扉を閉めた。オートロック式の扉は型に嵌まるとがちりと音を響かせて勝手に鍵がかかった。ノブについた指紋を軍手で拭き取る。
 鞄を拾い上げ振り返ると協力者が砂袋を全てエレベーターにしまい終わるところだった。紅林は走って通り過ぎざまに台車を思い切りエレベーターのなかに押しやった。あとは協力者に任せて扉が閉まるのも見ずにそのまま走り過ぎる。
 一番近くにあった男子トイレに駆け込み、ドアを閉めて時計を見た。
 ――一時五十九分。
(……間に合った)
 思わず壁に背を預けてしゃがみこむ。
 気づけば息は驚くほどあがっている。まるで徒競走をした直後のようだった。
 ぶるり、と振動を感じてズボンからポケットベルを取り出す。画面には柿崎の番号が表示されていた。内容は確認しなくても分かる。
(もっと余裕の持てる作戦にしてほしかったな……)
 切実にそう思ってから紅林は深呼吸した。
 まだやることは山ほど残っている。
 紅林は意を決して立ち上がり、抱えていた鞄を開けた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?