見出し画像

先生と豚①

 それまで時効を迎える気分というものを味わったことがなかったが案外あっさりとしたものだと紅林は感じた。

成人式で二十歳になる前は憧れのようなものを抱くが実際にそこに至ると何の感慨も湧かないのと同じだ。
ふと、あの人はどうしているのだろうと考えた。
思い返してみれば自分と関わったのはほんの僅かな期間だった。
紅林は無精ひげを撫でて苦笑する。
――なんだ、ちゃんと感傷に浸れているじゃないか。
「先生なら、なんて言うかな」
紅林はふう、と息を吐き目を閉じた。

一、

 もう、ずいぶんと前の話である。
その頃はまだ携帯も普及しておらず、いまでは死語と化したポケットベルが流行していた。紙幣にもまだ聖徳太子の顔があった。ただ丁度、新札が発行されると予告された時期で間もなく福沢諭吉の時代に移行するという時期だった。
 柿崎は変な教師だと紅林は思った。
実験室の隣に設けられた準備室、そこの備品であるフラスコやら何やら実験道具が並ぶ研究机を、半分書類で埋めて完全に私物化するような人物である。普通は職員室の机がこうなるはずだ。柿崎が言うには職員室でやる仕事と分けているだけだというが、紅林は信じていない。他の教師が皆そろいもそろって職員室で仕事しているのにこの男だけが例外ということはあり得ないだろう。どうやら柿崎は職員室が嫌いらしいと紅林は感じた。
紅林が高校二年に進級して新しく入ってきたのが柿崎だった。担当は物理と生物。比較的若くて顔がすっきりしているから女子の人気が高くなりそうだと感じた。
 ただ、実年齢を聞いたら三十後半で幻滅したと言う女子のため息を紅林は後の朝礼のなかで耳にした。紅林は二年で生物を専攻していて柿崎の受け持ちのクラスだった。
柿崎は授業をしているときに寝ていても怒らなかったが、話をしたり他のことをしていると注意する。紅林が記憶するなかで一度だけ、柿崎は授業中に声を荒げたことがあった。それは指名された生徒が面倒くさそうに、分かりませんと答えた時のことだ。
「少しは考えて答えろ。君の脳は腐ってるわけじゃないだろ」
 柿崎はそう言い放ち、言われた生徒も、聞いていたクラス中の生徒――もちろん紅林も驚いた。いまからすると怒鳴り散らして怒られたわけではなかったのに、紅林は気圧され萎縮していた。
 おそらくクラス中が同じ思いだったのだろう、柿崎が次の言葉を発するまで誰ひとり動けなかった。普段が穏やかな分、その違いに度肝を抜かれたのかもしれない。
 しかしそのことがきっかけで紅林は柿崎に興味を持った。他の教師は紅林からすると生徒を見下しているか、怖がっているか、可愛がりすぎて生徒に白けられるか――そのいずれかだったが柿崎はどれにも当てはまらない気がしたのだ。

 生徒と教師とをきっちり区別しているにもかかわらず、生徒を対等に評価している。実は何も感じていないのかもしれないが、それはそれで紅林にとっては異質に映った。
 そのせいか、紅林は柿崎がよく入り浸っている実験準備室に顔を出すようになった。
 クラスの連中が好きになれなかったから、まともに話せる相手を紅林が求めていたことも後押ししたのだろう。

 そして紅林はその日、深刻な顔で準備室のドアをノックしたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?