先生と豚17
閑散としたアパートの二階にインターフォンの音が響いた。
しばしの間をおいてドアが僅かに開けられる。実年齢よりも若く見えるすっきりとした顔が不機嫌そうに出てきた。
「やぁ、しばらくだな。柿崎」
言われて柿崎は更に顔をゆがめた。
「何しに来たんだい?」
「いや、何って時間ができたから、昔話に花でも咲かせようかと」
柿崎は訪問者の顔を睨み、ちらっと視線だけで周囲を窺った。日曜の昼だというのに人の声ひとつ聞こえてこない。
ふう、と深くため息をつくと、柿崎は訪問者のためにドアを押し開いた。
「上がるといいよ」
「そのつもりだよ」
図々しく男は部屋に入り込む。心得た様子で玄関と繋がっている狭いダイニングキッチンを通りすぎ、まっすぐ奥の部屋に向かった。柿崎はそれを横目に、突然の来訪者のためにキッチンでインスタントコーヒーを淹れ始める。
「相変わらず酷いな、この部屋は。足の踏み場もないじゃないか」
引き戸式の戸を開け、男は言った。
あのねえ、と柿崎は低い声を出す。
「勝手に来てその言い草はないんじゃないの? しかもわざわざ僕の書斎に座ることもないでしょ。こっちが空いているじゃないか」
柿崎がキッチンのテーブルを指す。男は、そうかと納得したようにひとつ頷き、素直にきびすを返して空いている席に腰掛けた。
男の前に無言のままコーヒーが置かれる。
柿崎が自分のカップを手に向かい側の席につくのを待ち、コーヒーを口にして男は切り出した。
「あの少年にはどう説明したんだ? 俺のこと」
また唐突だな、と辟易しながらも柿崎は答える。
「本当のことを教えても良かったんだけどね、君の役職だけは教えておいたよ――そう、銀行の支店長ということだけね。君がどう動いたかは伏せておいたよ……細かいことを訂正するのも面倒だし」
男は苦笑を漏らす。
「最後のは本音だな」
「悪いかい?」
いや、と男は軽く首を振る。
柿崎はため息を漏らす。
「こういうことは今回限りにしてほしいね。身がもたないよ」
「心にもないことを。お前は全く動かなかったじゃないか」
何を言ってるんだい、と柿崎は男を睨む。
「あのね、普通にまともな人間はここまでしないよ。昔の好で自分の身までさらしたんだよ? 君か紅林か、裏切られたら僕はお終いなんだからね。一番安全なのは君だろう。失敗しても君には役職という逃げ道がある」
「馬鹿を言うな。支店長なんて飾りさ、前にも言ったろう。所詮は本部の意向がなきゃ何もできんよ。俺がこんなことを実行したのもそのせいだ」
言って男はコーヒーを数口、続けて飲む。
その様子に柿崎はにやりと笑みを浮かべた。
「安い理由だよねえ、本当」
「悪いか?」
いや、と柿崎はわざとらしく首を横に振る。
男は軽く苦笑する。
そしてゆっくり口を開いた。
「今日辞表を提出して来たよ」
「そうか……」
報道では安全管理を怠ったとして銀行を非難する声も相次いだ。銀行への信頼は他に落ち、預金の全額保障をすると宣言しても、その事件自体の責任を誰かが負わなければならなかった。そういう際に使い勝手がいいのが中間管理職といわれる立場の人々である。
支店長ともなれば余程のことがない限り辞めさせられないが、今回は甚大な被害があったことも起因してそれなりの立場の人間が責任を取らなければ収拾がつかないと本部は考えたようだ。
男はふ、と力なく笑った。
「支店長なんてのは飾りだからな。代わりはいくらでもいる」
良かったね、と柿崎は笑みを浮かべる。
「全部、君の思惑通りじゃない」
まあな、と男は答える。
苦笑しているように見えるが、柿崎は長年の付き合いでこの男が充実感を抱いていることを悟っていた。銀行の体制に疑問を持っていた彼は本部に一泡食わせた挙句、好きでもない職を辞めることができた。その上、三億という大金もおまけでついてきた。実際の取り分は紅林や柿崎に振り分けて半分ほどに減ったがしばらくは遊んで暮らせる額が出来た。たまにアルバイトでもして小金を稼げば保障もされる。
「また、うまいこと考えたよね。本当」
柿崎はコーヒーを啜ってしみじみと言う。
元支店長は今度こそ朗らかに笑った。
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