嫌いな言葉
私には嫌いな言葉が幾つか存在する。
その数あるひとつに
人それぞれ
が横たわっている。こいつはかなり厄介で、使い方の問題で一気に嫌いになる。つまり、普通にしていたら特に問題は生じない。
むしろ、人間が人間たるオリジナリティを感じられる言葉で好感を持っている。言い換えるなら、十人十色という綺麗な表現になるのもグッとくる。
では、使い方の問題というのは何かと言うと、議論の場でみられることがあることに対して指している。それも、逃避のようなニュアンスでなされる"人それぞれ"にはいつも呆れ返っている。どうして、大切な言葉をそんな瑣末に扱えるのだろうか。人それぞれなのは当たり前なことだ。ただ、意見の違いを話し合う場でその言葉を使えば
やっぱ皆、意見違うよねー
と言ってるようにしか聞こえない。確認事項にすらなっていない。掛けていた眼鏡を拭いてかけ直す。汚れていたからではない。そのくらい目の前の景色が信じられないのと、この不毛な時間に何かをしていないとその空間に佇んでいられなくなるからだ。
また、その言葉を発言した人物を見てはいけない。自慢げな態度をとっている可能性をおおよそ含んでいるためである。もし、その態度を見てしまえば走った虫唾が全身を巡り、叫んでしまいそうになる。
今、思い出しながら文字を打っているだけでも筆者は眼鏡を3回拭いている。
好き嫌いといった稚拙な感情で表現してしまったのは私の浅薄さによるものだが、好きでもあり嫌いでもある複雑な心境は行き着くことなく、漂うばかりだったので、ここに記すことにした。
はっきりと言う。
私は、"人それぞれ"を無碍に扱う人を信用していない。巧言令色という言葉が指すようにスラスラと流暢な麗句を並べる人に私は、真髄を見出したことはない。表面的で冷淡で考えつくのは弥縫策ばかり。
どうしてそこまで言えるのかと問えば、私自身過去にそういう人間だったからである。元同族として、思考や気持ちは分かるので、その無知と青さに哀しくなる。もし、昔の自分がこう言われたらこのように言い返すだろう。
「お前は人それぞれじゃないというのか」
と。
おい、話を聞いているのか。私は"人それぞれ"自体否定していない。言葉の悪い部分を抽出するな。そんなに"人それぞれ"が好きならそうすればいい。
ただ、批判をされて頭ごなしに言い返すのはよくない。それは中庸になれない。なぜなら、批判を受け入れる姿勢のない者は中庸にはなりえないからだ。それはただの曖昧だ。
そして、君は誰にも批判をできない。君が君の口に貼ったテープは何か鏡で見てごらん。
人それぞれが蔓延する世界は苦しいだろう。
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