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正しさ
昔から,正しいことは気持ちがいいと感じる.
問題を解いて正解に辿り着ければ気持ちがいいし,
先生に褒められれば気持ちがいいし,
誰も見ていなくても赤信号をきちんと守ることは気持ちがいい.
そんな考え方をしていたら,いつしかあらゆる物事を正しいか正しくないか(若しくは,正しそうかそうでないか)で判断するようになっていた.
それはあらゆる物事に対する「答え」が僕の中に在るということで,ともすれば僕は「答え」が共有できない人間のことをそれだけで正しくない存在として切り捨ててきてしまったのかもしれない.
自分が酷く残酷な人間であるような気がして,ある夜僕は世の中で正しいと思うものを片端から思い浮かべてみた.
学術論文
学術論文は,やはり正しいと感じる.厳格な査読システムの下,科学的に十分な根拠を持つことが保証されている.
しかし先日はじめて主著論文を出版した際,学術誌によっては意外にも中身の厳密性は追求されないということを知った.
例えばいつかニュースになっていたように,全く架空のデータが投稿されていたとしても査読時点で検証されることは恐らくないし,式中の添え字に抜けがあったとしても気づかれることはまず無い.
そこで問われているのは「この結果を裏付けるために必要十分な情報は何か」「論理に矛盾はないか」というような,国語に近い範疇の内容であり,言うなれば中身ではなく態度が見られているという印象を受けた.
科学的に正しい態度の者が著した文章であれば,やはり学術論文は正しそうに思える.
思い出は写真に残すのが正しいと感じる.さらに,それを何らかの形(例えばSNS)で整理しておくことはもっと正しいと感じる.
思い出は美化されていくものだから,その瞬間瞬間をなるべく切り取って保管しておきたい.保管したものは後に参照し,確かめなければ意味がない.他人と共有なんてできれば,より確かなものになって最高だ.そんな訳で僕はinstagramを気に入っている.勿論ストーリーズより投稿派だ.
フィギュア
自らの手で触って確かめられるものは正しいと感じる.僕のフィギュア好きは,恐らくこれが理由だ.残り1次元を脳内で補完しなければならないアニメや漫画のキャラクターは僕にとってどこか不安定な存在で,手元に立体化されてはじめて安心できる,という感覚がある.
例えば旅行のお土産にしても,食べてしまえば形を失ってしまうお菓子類より,ご当地キャラクターや名物をモチーフにしたキーホルダーに魅力を感じてしまう.
その点海外の観光地はランドマークやシンボルを何でもかんでも造形して土産物として売る傾向があって良い.サムネイルは先日イタリアを旅行した際の購入品で,ミラノのドゥオーモ,ベネツィアのゴンドリエーレ,フィレンツェのダビデ像である.生活の中で目に入り,手で触れるたび,あの甘美な10日間を思い出す.
気を遣わせないこと
コミュニケーションにおいて,他人に気を遣うことよりも,気を遣わせないことのほうが正しいと感じる.
相手の顔色を窺って出方をコロコロ変えることは誠実な態度ではない気がするし,得てして人間というのは気を遣われると気を遣い返してしまうものだ.
言葉にしてしまえば月並みな主張だが,互いに自然体でいられる関係が良い.
変わらないもの
変わらないものは正しいと感じる.世の中の大抵のものはある定常状態へと変化していく過程にあって,最後に辿り着くものこそが「正解」であるような気がする.
ある物事が終わるとき(卒業や失恋など),多くの人はそこに侘しさを覚えるし,僕もそのうちの1人であるが,一方でこれまで不定形な未来であった思い出や関係性が1つの形を得たことに一種の充実を感じている自分がいる.
死
ということは,命の終わりを表す「死」という概念も正しいような気がしてくる.しかし,人に死をもたらすことは殺人という立派な犯罪であるし,多くの場合死というものは関係した人間を大きく傷つける.
僕は昨年兄を亡くしたが,今もなお続くこの悲しみを人に与えることが正しいことであるとは到底思えない.
僕は僕自身が終わりを迎える前に,あなたにお別れを告げてから逝きたいと思う.そうすれば私たちの関係はそこまでの形を以て胸にしまっておくことができる.
逆にその時私たちの間に蟠りが残るような関係性であれば,その感情は後へと残り,折角のお別れが意味を失ってしまう.
僕は正しく死ぬために,あなたを傷つけず,正しく生きたいと思う.