作り手の視座とプレイヤーの視座
はじめに
ゲームを作る時、作る人が見ているゲーム像とプレイヤーが見ているゲーム像、少し同じで、少し異なっている、と感じる事はありませんか?
できれば完全に一致すると良いのですが、なかなかそうはなりません。
ここでは、主に作っている人のゲーム像についてお話しして、そしてそれが落とす影、つまり、プレイヤーのゲーム像との差異についてお話ししたいと考えています。
もし、あなたがゲームの作り手でしたら、作り手とプレイヤーのゲーム像を一致させるヒントになるのでは、と考えて。
作り手のゲーム像
始まりは小さな手がかりから
まず、作り手の人、この場合、ゲーム全体を設計する立場の人をモデルとしましょうか。もちろん、部分を設計する人にも通じるお話しです。
どんなゲームを作っているか、を理解している人、というのが前提になるかな、と思います。
さて、作り手のゲーム像の始まりは、とても小さな所からだと思います。
もちろん、既存のゲームに新規アイディアを追加する場合でも、その新規アイディアは小さなところから始まる、と思います。
ちょうど、真っ暗闇の中に、そこだけ光が当たっている手を乗せる場所がある、そういう状態です。
そこに手を伸ばし、辺りを見回しますが、ぼんやりとしていて、良く目を凝らさないと見えません。もし、既存ゲーム同じ箇所があるのでしたら、それらの箇所は良く見えます。
ですが、新規アイディアのその場所だけは、暗く視界の悪い状態だと思います。
広がっていく視界
そして、アイディアを練っていく内に、視界は広がっていきます。
既存ゲームの視界と上手く接続するようになっていきます。
もちろん、上手くいかない時は、上手く接続できず、なんとなくザラザラした感じだと思います。
この辺りの手触りを感じられる時というのは、問題の検出が上手く行っている時です。
まあ、問題の箇所はプロジェクトの進行とともに可視化されていくのですけど
それでも見えていない面
さて、作り手の位置からの視界は一通りクリアになりました。
そして、どこにも暗い所も、目を凝らさなければならない所も無くなりました。
けれど。
これは、作り手の位置から見た視界のお話。
その位置を外れると、その視界の中の物体(ゲームのルールや仕組み)の裏側が、実は、空っぽの場合もあるのです。空っぽ、というのは分かりにくい表現ですね。物体の裏側にあたる部分が曖昧な状態、という意味だと捉えてください。これは、次に述べるプレイヤーのゲーム像に関連してくる箇所です。
補足
この作り手からの視界は、ゲームができていく内に色々と変化します。要素の追加、変更などが行われる度に、モヤがかかったり、晴れたり、などです。
どんなゲームを作っているか。
視界がクリアになっている時が、それを理解し創造しようとしている時だと思います。
プレイヤーのゲーム像
プレイヤーはゲームの新規部分を何も知らない
事前に情報を仕入れている場合を除いては、プレイヤーはそのゲームの新規部分を何も知りません。事前に情報を仕入れている場合でも、実際に体験するのは、プレイするその時になってから。
プレイヤーはゲームの展開を通してゲーム像を形作る
事前情報を除いては、プレイヤーはゲームをプレイしていく内に、そのゲームのゲーム像を作っていきます。
これは、現実を認識する作業と似ています。
体験して、その体験を分解して頭の中にモデルを作り上げていく、そういう現実の認識作業と。
プレイヤーはゲームをプレイして、体験して、そのゲーム像を頭の中に作り上げていきます。
ですから、プレイヤーの作るゲーム像は、ゲームを体験する順番、つまりゲームの展開を通して、という事になります。
作り手のゲーム像とプレイヤーのゲーム像の食い違い
作り手のゲーム像
作り手のゲーム像は、ゲーム全体を網羅しています。後述する見えていない点を除いて。ちょうど俯瞰するような感じです。
作り手にとっては、ゲーム像の要素の箇所は大体均一か、あるいは作り込んだ箇所や思い込みの強い場所の濃度高い、というようになります。
プレイヤーのゲーム像
これに対してプレイヤーのゲーム像は、ゲームの展開に応じて広がって行き、プレイして楽しかった所や、苦しかった所の濃度が高くなる、というようになると思います。
ゲームのシステムを読み解く能力のあるプレイヤーは、作り手のようにゲームの全体像を俯瞰的に捉える事ができると思いますが、そうでないプレイヤーは局所的な捉え方を繋いだ形になると思います。
食い違いの箇所
先の「それでも見えていない面」で「その視界の中の物体(ゲームのルールや仕組み)の裏側が、実は、空っぽの場合もあるのです」という箇所、覚えていますか?
この箇所をプレイヤーはちょうど空っぽの側から見る場合があるのです。
作り手側からは、きちんとできているように見える。
プレイヤー側からは、何かおかしい、あるいは、不便と感じる。
作り手側は、ゲーム像を作る時、ちょっと大袈裟ですが「設計思想」を持って作っています。ゲームのルールなどを作る前提となる考え方です。これは強力な磁力を持っていて、作り手のゲーム像を拘束します。
ところがプレイヤーにはその「設計思想」が分かりませんし、そもそも持っていません。
プレイヤーはゲームをプレイして自分のゲーム像を作り、それに合ったモノである事を期待します。
その期待と設計思想が一致しないという食い違いです。
食い違いの例
スマホのゲームで”PLANTS WITH 5 ELEMENTS”という、2Dのパズルゲームを作り、東京ゲームショウに出展した時のお話です。
このゲームは、主人公の妖精を操作して、妖精の植物を操る魔法を使ってゴールを目指す、というものです。
妖精の周りのアイコンをタップすると、移動したり、魔法モードになって植物を生やしたり乾したりできます。
植物は1回の操作で1ブロック分伸びます。さらに伸ばすには、また魔法モードにする、必要がありました。
これは1回の操作が終わると、一番上の階層の操作に戻る、という先の設計思想に基づく操作ルールだったのでした。
ショウでプレイしたプレイヤーから「植物を連続して生やしたい」という要望がありました。
ショウに用意したステージは、かなり広いスクロールするものでしたので、植物を生やして妖精を上に持ち上げる箇所があったのです。
その度に、魔法モードを選んで、植物を生やし、魔法モードを選んで、と繰り返さなくてはならず、先の要望となったのだと思います。
ショウが終わった後、要望を実装して、魔法モード、植物を生やす、一番上の階層に戻らず、植物を生やす、という選択ができるようにしました。
すると、植物を連続して生やすアニメーションがとても気持ち良いのです。
「なんでこの方法に気が付かなかったんだろう」
少々凹みました。
一度魔法を使うと一番上の階層に戻る、そういう設計思想で作っていたため、その裏側に目が届いていなかったのです。
ゲームのルールとゲームの仕組み
作り手には見えていて、プレイヤーには隠されているもの、という視座とは少し違いますが、割とそれに近いものかな、と思うものに「ゲームのルールとゲームの仕組み」があります。
ゲームのルールは、このゲームで勝利するためには〜する、というようなものです。
RPGとかだと、NPCに話しかけると、このゲームで何をするのか、などを教えてくれる、あれもルールの説明と言えるでしょう。
ゲームの仕組みの方は、例えば「アイテム2つを合成すると別のアイテムになる」というルールがあったとします。(実際には属性〜のアイテム+属性〜のアイテムだと属性〜のアイテム、とかいう詳細なルールの説明があると思うのですが)
このアイテムAとアイテムBでアイテムCが出来る、というのを具体的に構築しているのがゲームの仕組みです。
ゲームの内部仕様であり、それを実装しているプログラムになります。
この辺の詳細を解説しているのが攻略サイトだったりする訳ですが。
プレイヤーに開示されているゲームのルール
ゲームのルールはプレイヤーに開示されます。明示的か暗示的かは別として。
先のNPCが語るゲームの目的などがそれです。
プレイヤーには開示されないゲームの仕組み
先のアイテム合成の具体的な内容などはプレイヤーには開示されない事が多いと思います。
開示はされませんが、ゲームの作り手は熟知しています。
ここに、作り手とプレイヤーの情報格差があり、これも食い違いの原因になる事があります。
つい、自分が知っている事は相手も知っている、という暗黙的な前提を作ってしまうんですよね。
開示した方が良いゲームの仕組みの例
2Dのゲームで、主人公が落下してある高さだと死亡する、というルールがあったとします。
その場合、プレイヤーには、この高さだと死ぬのか、死なないのか、というのが分かりません。
プレイヤーに伝える方法はいくつかあると思いますが、死ぬ高さは体得してもらうけれど、そのヒントは出す、という仕組みで考えてみます。
落下して死なない高さまではただの落下アニメーションです。
死ぬ高さ(落下距離)に到達したら、空中で止まりジタバタします。そしてジタバタしながら落下して、床に当たると死にます。
こうすると、空中で止まった所が死ぬか死なないかの境界線だと、プレイヤーに伝える事ができます。
ゲームの仕組みでルールを解説する方法ですね。暗示的ですが。
この仕組みに至る思考には、作り手は知っているがプレイヤーは知らないコト(死ぬ落下距離)があり、それはプレイヤーが学習できるようにしよう、という流れがあります。
視座の食い違いを埋めるための仕組み、と言えるでしょう。
チュートリアルで現れる視座の食い違い
作り手の視座とプレイヤーの視座が初めて出会うトコロ
チュートリアルは、作り手の視座とプレイヤーの視座が初めて出会うトコロです。
こういう風に操作する、こういう風に遊ぶ、というのに誘導しつつ、プレイヤーにゲームを体験してもらう初めての場所なんですね。
割と失敗しやすいチュートリアル
操作方法を教えようと、操作する画面上のボタンを明示して、それを押して行くとチュートリアルが終わる。
とても良いアイディアのようですが、プレイヤーが明示している箇所を何も考えずに押していくと、何も学習しないままチュートリアルが終わってしまうという危険性があります。
なぜそうするのか、を文章で説明しても、読んで無いかも知れません。
結構厄介ですね。
これは、プレイヤーが知りたい事と作り手が教えたい事が食い違っているのが、原因なのでは無いかと思っています。
「操作方法が分かれば、後は大丈夫」そう作り手は考えているかも知れません。
果たして、本当にそうかな、と。
チュートリアルは割と早めにどうするか考えておくと良いというお話
作り手の視座はゲーム全体を俯瞰的に見ていますが、プレイヤーの視座はゲームを体験する順に広がっていきます。
つまり、ゲームの導入部のチュートリアルがゲーム体験の入り口になる訳です。
ここで、どんなゲームか、どういう風に遊ぶのか、という事を体験させるのが重要だと、私は思っています。
作り手の視座でありがちなのは、割と遊んだ後の方で本当の面白さを用意しておくから、導入はあまり考えていない、というケースです。
この場合のチュートリアルは、かなりの確率で失敗すると思います。
ゲーム像を作る時「プレイヤーの視座で考える」というチェックを行い、チュートリアルをどう構成するか、を良く練っておく必要があります。
おわりに
ざっくりとした内容でしたが、ゲームの作り手の視座、そこに誤謬が生じる原因について、なんとなく掴んで頂ければと、書いてみました。
ゲームを作る人のお役に立てれば幸いです。
そしてゲームを遊ぶ人が「そうなんだ!」と新しい視座をもつことになると、それもまた幸いです。