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時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #01   宗谷本線①

はじめに

 このシリーズは、全国各地のJR・国鉄・第三セクター路線を取り上げ、見所や歴史を切り取ってみたいと思っています。取り上げ方は、〇〇本線とそれに連なる支線という形で取り上げます。今はもう廃線となってしまった路線も取り上げ、往時をしのびたいと思っています。
 昨今、鉄道路線の赤字問題についてのニュース記事をよく見かけます。
 その昔、右肩上がりの時代には、新しい路線が数多く計画され、その後右肩下がりの時代に入ってしまい、多くの計画がとん挫しました。
 計画通りに建設された路線も、赤字を理由に廃線となりました。
 鉄道路線網というのは、人間の体に例えて言えば、血管のようなものであり、それを分断することは、日本という国の物流(血流)を滞らせるのと同等であり、いずれ、日本が立ち上がることが難しくなってしまうのではないかと危惧しています。
 各路線が建設・計画されたのには相応の理由があり、時代と産業の変化により必要なくなってしまった部分も当然あります。しかし、本当に切ってはいけないところまで切ってしまうことは、自らの寿命を縮めることと同義だと思います。
 そのような危機感から、全国の各路線をそれぞれじっくり見ていってみようと思った次第ですが、難しく考えずに気楽に読んでいただければ幸いです。

宗谷本線・天北線

宗谷本線(そうやほんせん)
●概要
旭川ー幌延(ほろのべ)ー稚内 259.4㎞ 
開業:昭和3年(1928年)(開業当初は天塩線)
天北線(てんぽくせん)
●概要
音威子府ー浜頓別(はまとんべつ)ー南稚内 148.9㎞ 
開業:大正11年(1922年)(開業当初は宗谷本線)
廃止:平成元年(1989年)→バス転換

※両路線とも線路名称が最終形態となったのは昭和5年(1930年)

《開業前後の時代》

 宗谷本線は、まずは南側の旭川ー名寄(なよろ)【①】75.96㎞が、明治36年(1903年)北海道官設鉄道によって開業しました。2年後の明治38年(1905年)に北海道官設鉄道から官設鉄道に移管され国有化されました。当初は天塩(てしお)線を名乗っていましたが、宗谷線に改称しました。
 先に、旧天北線経由で稚内(現南稚内)まで全通【②】し、そちらが宗谷本線を名乗り、音威子府(おといねっぷ)から幌延方面は音威子府側を天塩南線【③】、稚内側を天塩北線【④】とされました。

大正14年当時開通路線(宗谷本線関係のみ)

 大正15年(1926年)に、音威子府ー幌延ー稚内(現南稚内)128.43㎞が全通し、天塩線が全通しました。さらに、昭和3年(1928年)に稚内(現南稚内)ー稚内港(現稚内)2.41㎞が開業し、宗谷本線(天北線経由)、天塩線が全通しました。
 昭和5年(1930年)に天塩線を宗谷本線とし、音威子府ー浜頓別ー稚内(現南稚内)を天北線として分離し、最終形となりました。なお、昭和14年(1939年)に稚内が南稚内に、稚内港が稚内にそれぞれ改称されています。
 なんとも複雑な経緯ですが、宗谷本線はこうして完成をみました。

 北海道北端の路線の全通を急いだ理由、それは、当時の北海道開拓を急ぐ時代背景と樺太経営があったと思われます。大正12年(1923年)に稚内-大泊(樺太)航路の開設もその一環と思われます。

 開業当初から宗谷本線には、函館から直通の優等列車が運転されていました。それほど、国の樺太経営さらには、日本北方の国防の意識が高かったものと推察されます。

大正時代の優等列車時刻表(大正12年(1923年)5.1)
急行(列車番号1) 函館発稚内行き 
函館22時15分発-札幌7時30分着-旭川11時42分着ー稚内21時14分着
連結車両:1.2.3等車 食堂車 1等寝台 2等寝台

 連結されている客車のランクを見ても、当時の最高編成であることから、函館ー稚内路線の重要度がうかがえます。

次回へつづく


〔参考文献〕
・全国鉄道地図帳 昭文社
・駅名来歴辞典 国鉄・JR・第三セクター編 石野哲著 JTBパブリッシング
・日本鉄道旅行歴史地図帳 北海道 [監修]今尾恵介・原武史 日本鉄道旅行地図帳編集部[編] 新潮社




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