時刻表に乗る番外編 路線あれこれ #04 名寄本線
名寄本線
《栄光の時代》
名寄本線は湧別軽便線として遠軽ー社名淵(のちの開盛(かいせい))【①】4.51㎞が大正4年(1915年)に開業したところからスタートしました。翌大正5年(1916年)社名淵ー中湧別ー下湧別(のちの湧別)【②】16.58㎞が開業し、同時に狭軌への改軌を行いました。その後は名寄側からおよび中湧別側から徐々に路線を伸ばし大正10年(1921年)全線が開業しました。開業当時は名寄線と名乗っていましたが、大正12年(1923年)に名寄本線に名称変更されています。
当時は、網走方面に向かう唯一の路線であり、函館からの直通列車も運行されていた時代でした。
大正10年10.5改正 時刻表
普通(列車番号3) 函館発網走行き
函館14時0分発-札幌23時42分着-旭川5時15分着ー稚内18時36分着
連結車両:1.2.3等車 2等寝台
旭川から網走まで、逆Uの字ルートでの運転となるため、旭川から網走までは13時間21分の時間を要しています。
しかし、その功績は大きく、旭川と網走を結ぶ大動脈として道東地区の開拓、発展に大きく貢献し、沿線の利便性を増進させるため、多くの仮乗降場などが設置されました。
しかし、昭和7年(1932年)石北本線が開業すると、函館からの網走への直通列車は石北本線経由に変更されます。
名寄本線のあまりにも短い栄光の時代は幕を閉じたのでした。
《戦後の時代》
道内連絡の使命は失ったものの、名寄本線は道東地方の地域の足の役割を果たすことに徹することになります。昭和30年代後半には、一部札幌からの直通急行列車が走ったりもしました。
しかし、国鉄末期の平成元年(1989年)に発表された、国鉄赤字ローカル線の廃止対象路線(第二次特定地方交通線(輸送密度2000人/日未満))とされ、本線としては全国初となる廃止という道をたどりました。
名寄本線を走った主な優等列車
急行 天都 興部(おこっぺ)ー網走(昭和55年(1980年廃止))
急行 紋別 札幌ー名寄ー遠軽(昭和61年(1986年廃止))
急行 旭川 旭川ー紋別ー旭川(昭和43年(1968年)廃止)
興浜南線・渚滑線・勇網線
《それぞれの役目を全うした各路線たち》
興浜南線【①】は、乗客の少ない線区の効率化を図った小型のディーゼル車(レールバス)を導入したり経営の効率化への努力を怠りませんでした。宗谷本線編で触れたように、興浜北線とセットで興浜線の完成を夢見ていましたが、計画が凍結されたまま、廃線となってしまいました。
渚滑線【②】は、当初は道央との接続を目指して石北本線上川方面への延伸を目指していましたが、これも計画が凍結されてしまいました。しかし、沿線の森林資材輸送路線としての活路を見出し、活躍しました。
ところが、沿線人口の希薄さには抗えず、貨物もトラック輸送に切り替えられ、その役目を終え廃線となりました。
勇網線【③】は網走ー遠軽間の短絡路線として計画され、昭和10年(1935年)から建設が始まりました。全通した後は、昭和55年(1980年)までは、網走で札幌行きの夜行急行に乗り遅れても、後から発車する勇網線普通列車に乗れば、遠軽で追いつけるダイヤが組まれたりして、その役割をいかんなく発揮していました。
しかし国鉄末期の赤字ローカル線廃止基準である第二次特定地方交通線(輸送密度が2000人/日未満)の路線となってしまい(267人/日)、廃線となりました。
各路線とも、道東の沿線人口が希薄な地域を走る路線であり、杓子定規な基準に当てはめてしまうと、輸送密度が不足していたのかもしれませんが、オホーツク海などの雄大な自然を見せてくれる貴重な路線があっさり切られてしまったのは残念でなりません。
魅力的な沿線風景
勇網線と、オホーツク海の流氷。現在でも車で行けば見られるのかもしれませんが、鉄道の車窓から眺めて見たかったなあと思うと、なくなってしまったものは返ってこない悲しみがこみあげてきます。
今回取り上げた路線は全て廃止になってしまった路線たちでした。先ほども述べましたが、杓子定規な基準のみで切り捨ててしまったものは二度と返ってきません。北海道の鉄道網を考える上で、特に本線級の名寄本線まで廃止になってしまったのは、大事な血管を切り取ってしまったのではないかと思わざるを得ません。
廃止になってしまった各路線たちが、役割を全うして、その役目を終えたことに対し、お疲れさまでしたと心から敬意を表したいと思います。
名寄本線編 了
〔参考文献〕
・全国鉄道地図帳 昭文社
・駅名来歴辞典 国鉄・JR・第三セクター編 石野哲著 JTBパブリッシング
・日本鉄道旅行歴史地図帳 北海道 [監修]今尾恵介・原武史 日本鉄道旅行地図帳編集部[編] 新潮社