日記は平安貴族のたしなみ!マメすぎてのし上がった男・藤原実資『小右記』
突然だが、あなたは日記を付けようとしたことはあるだろうか。
わたしはある。何回も付けようとして、毎度三日坊主ないし二日坊主ないし一日坊主で終わっているのだ。ノートに付けていた時代からブログに至るまで何回も何回も始めては挫折を繰り返している。
そんな、誰もが挑戦し、敗れていく習慣……日記を60年余りのあいだ書き溜め続けた男がいることをあなたはご存知だろうか。
その名も「藤原実資」!!!!
実資と書いて「さねすけ」と読む。
藤原実資は平安時代に生きた貴族で、957~1046(天徳1~永承1)年までの90年間!まさに平安時代大盛り上がりの時期を生きた男である。
その90年の生涯のうち977~1040年の63年間、欠かさず日記を付けていたという。なんという継続力だろうか……。
ハタチから83歳までのあいだ、日記を付け続けるなど、到底真似できそうもない……。お手上げである。
当時の貴族による私的な日記は、当時の生活や儀式の様子、しきたりなどを伝えるものであったため重要な記録となっている。特に実資が残した『小右記』は記述が詳細であるため、当時のことを知るためさかんに研究されている。このような当時の貴族の日記は「古記録」と呼ばれ、格好の研究材料となっているようだ。
当時の日記は「具注暦」という専用の巻物カレンダーに書かれていた。具注暦は「陰陽寮」という役所で作られていた。公的なツールとして日記が作られていたことを考えると、当時から記録としての日記はかなり重要なものだったらしい。はじめは公的な記録である「公日記」として登場した日記だったが、そのうち個人の日記である「私日記」が残されるようになる。
当時の日記は基本的に漢文で書かれていた。漢文といっても、通常の中国語文法(「純漢文」)ではなく、「変体漢文」という日本独自の文法が用いられている。一般的に「平安時代の日記」と聞いてはじめに思い浮かぶ仮名で書かれた日記文学は、まさに別物なのである。
さて、藤原実資の話に戻ろう。
実資は、957(天徳1)年に当時の藤原家の嫡流である小野宮家に生まれた。祖父である実頼の養子となり、まさに出世の約束されたネクストジェネレーション!という風情であったが……。
当時の貴族のなかで、出世のカギとなっていたのは天皇家の外戚となることであった。外戚……つまり娘を天皇に嫁入りさせて天皇家の親族となることで権力を握り、いずれ生まれた子を天皇に即位させることで、天皇のおじいちゃんとして政治の実権を握っていく……という分かりやすい出世モデルが当時は確立されていた。
まさにこの「外戚プラン」でのし上がったのが藤原道長その人なのだが、実資の血筋である小野宮家は外戚関係をうまく築くことができず、次第に力が衰えていってしまった。
実資と道長は当然、親戚関係にある。道長は実資の9歳年下の又従弟であり、外戚関係をうまく築いて国政のナンバーワンとなった道長に対しては実資も複雑な気持ちを抱いたのではないだろうか。
嫡流でありながら、わかりやすい出世コースからは外れてしまった藤原実資が右大臣という国のナンバー2ポジションを25年間・四半世紀続けていくことができたのは、まさに実資の「マメさ」のお陰であると言えよう。
60年間欠かさず子細な日記を書き続けるだけのマメさが、実資を出世させたのだ!日々の出来事を記録として残す重要さを知っていた実資は、同時に過去の記録にも多くの知識を持っていた。知識の量で実資に勝てる者が宮中にはおらず、その実力でのし上がって行ったというのが実資の出世の実である。
現在でも、古記録にあたろうと調べると真っ先に名前が登場するのが『小右記』である。マメさは1000年の時空を超えるのだ。
日記がいつも三日坊主で終わってしまう身としては耳が痛い話ではあるが、ちょっとだけでも頑張ってみようかなと勇気づけられる部分も、あるかな?
参考にしたウェブサイトは以下の通り。
新型コロナの影響で気軽に図書館に行けないのが悔やまれる。
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