僕の失敗しない人生
1/10(火)
午前中に珈琲の焙煎。この間、いつから焙煎を始めたのか思い返してみると22か3のときなのでちょうど20年になる。
ひとつめの焙煎をしながら、ふと思いついて次の焙煎を少し変えてみた。具体的には投入量を50g減らした。
投入量を変えると火の入り具合と、豆自体の熱による加熱の速度が変わるので、必然的に火力と火力の調節のタイミングも変わる。
僕は焙煎中は時間しか測ってないのだけど、焙煎時間自体は同じでも投入量と火力が違うと、もちろん味わいも変わる。
その話は今回はどうでもよくて、話は20年経ってもまだ試してないことがあって試したいことが見つかることが、まだ見つけられる自分に嬉しくなったので笑。
また、それを気楽に変えられる状態に焙煎の方法を、道具を、店のあり方をはじめに設定しておいた自分と、僕自身の状態もえらい!と自分を褒めてあげる。
なんでそんな簡単にいろいろ変えることができるのだろう、日々の暮らしの中でも変えたいのになかなか変えられてないことはまだ沢山ある。
それで、自分でもなんでか、まさに新しい焙煎方法を試しながら、そのときの僕自身の状態を観てみることにした。
焙煎が終わって、家に帰って試飲したときに、たいへん面白いことに気がついた。
今までもそうだったのだけど、試飲したとき僕はいつも
「あ、こういう味になるのか」
と思っているのだ。
「これは美味しいな」
「これはちょっと勿体無いな」
不味いな、と思うことはほとんどないけど、美味しいそれほどでもないは思うけれど、
「成功した!」「失敗した!」
と思うことがない。
ほんのたまにだけど、焙煎しながらスマホや本を開いていてうっかりすると、いつもから外れてしまうこともある。しかし、そこで慌てて軌道修正して元のように戻そうと火力をいじると余計に道を見失うことは20年の経験でわかっているので、そこで豆を見て、今どんな流れでどのあたりにいるのか、そしてそのまま一番無理がないようなところに着地する。最初に狙っていた焙煎度合いからずれて深煎りになったり浅煎りになっても気にしない。大事なのは予定通りにいったかではなくて、流れだから。
で、出来上がったものを飲んで、それまで知らなかった、思ってもいなかった味わいを発見することなんて沢山あった。今でも、そう。毎回、そう。
だから失敗にならない。
そこで、今日ふと焙煎しながら気づいた。
僕が焙煎を失敗しないのは、焙煎する前の想定をしないからなのだ。
実は失敗などなくて、失敗だと思うだけ。失敗だと思うのは、始める前の想定があってその通りにいかないからで、予想、想定がなければ失敗はない。
というか、僕も希望やゴールはいつもあるけれど、そこまでの道順はまだ行ったことがないからわからない。また、先を描いている自分は今の自分だから行き着いたゴールが自分が本当に望むゴールかどうかはわからない。でもゴールに辿り着いた自分は歩き始めた自分とは、もう違う自分で見てきた景色も違っているし、今見える景色もあのときとは違う。
だから、いつもそこには発見しかない。今まで見えていなかった景色が広がっている。そこは成功でも失敗でもない。そう判断しているだけなのだ。
焙煎はいつでも、毎回新しい、それっきりの一回なので発見しかない。焙煎に限らず、なんでもいつでもそのときはいつも自分が知らなかった新しい今。
それを望んでいたかいなかったで失敗、成功と決めているのは僕自身でしかない。
失敗がないということは、成功もないということで、20年焙煎してきて、いつも「うん、今日のは美味しく焙煎できたなぁ」
といつも思うけれど、10年前5年前3年前の焙煎はまだまだだったなぁ、と今なら思うし、同時にあのときの焙煎はもう僕にはできないな、とも思う。
2020年10月29日に絵を描き始めて、450枚くらい描いた。100枚描いたとき個展を開いて、全部飾った部屋で一人、ひとつひとつの絵を眺めて思ったのは、
「もう、こんな絵は描けないな」
だった。
描き始めた時の僕は、今僕が描いているような絵が描けるなんて本当に、これっぽっちも思ってなかった。でもあのときの僕は今の僕が、もうあのときの絵は描けないと思ってるとは知らないだろう。そこにあるのは、いつもそのとき一回きりの出現の驚きだ。そう思ったとき、成功もまた、その意味、重きがすぅと消えていくのだった。