僕の本の読み方、絵の描き方

『わたしは強ク・歌ウ』だった。昨日読んだ小説のタイトルの正確な文字は。
昨日は途中の、5 から読み進めたので今日は最初から読んでみた。2ページ読んだ。文芸誌に載っているので一冊になったら何ページ分になるのかわからないけれど、文字数は全然多くない。そしてまた飛ばして、途中から読んだ。
登場人物の呼び方が、人によって一人の人でも呼び方があなた、とかパパ、とかお前とか弟、とか36番の方、と変わるように作中で変わるのでどれが誰だかわかりにくく、そこにさらに僕は途中を飛ばしたり、中途から読み始めるので余計に誰がどこにいるのかわからない、読んでるうちにそれが「わたし」であり「バスの中」にいることがわかるけれど、読み始めたときにはわからない。わからないけど文字は読めるから読めるし、読み始めた一行目から書かれているのとは全く別の情景や昔の記憶や今まで気づかなかった閃きが現れることだってあるので、
とはいえ最初はやっぱり肝心だと思うので、一番最初に読み出すときは最初から読む、最初がつまらないとすぐ飛ばして何ページか先を読んでみる、とするとやっぱり飽きるからやめるのかというと、そうばかりじゃない、面白くて読みたいけど身体がウズウズしてくるので動きたくなるが動くと読めないので、体が動くかわりにページを飛ばしているのかもしれない、飽き性の僕が本を読むための一つの策みたいなものなんだ。
さもそうであるかのように打ってみたが、今はじめてそう書いてみて思ったことなので次読んでいるときにそうなったときに観察してみようと思った。

はじまりはやっぱり始まりで、後からそれより前をはじめとして始めて、最初の始まりに結びつけることもできるけれど、それは最初のはじまりがあったからこそ起こった始まりなので、読む人にとっては後の始まりがはじまりかもしれないが、目に見えない形で必ず、残る。最初のはじまりに始まった何か、はその流れの中で動いて、どこかにおさまってゆく。おさめる。
絵を展示しても「この絵はどこから描き始めたのですか?」と聞かれることはほとんどないけれど、舞踏とかだと時間は巻き戻せないから途中をはじめにすることはあらすじを入れ替えたところで、観る人にとっては最初がやっぱり始まりで、筋の問題じゃない。僕は絵がどこから描き始められたのか気になることがある。自分がいつも左上から始める傾向があることに気づいてから、それは風景画を描くときのことで、風景画は絵を描きたいけど何描いていいかわからないときに風景は見えるからわからない、がないから描けるから、それは抽象画を描くときも同じだ、と思っていたけれど、なぜなら大体いつだってイメージが先にあることは殆どなくって、とりあえず色を一つ選んでぐしゅぐしゅっと線を、糸を丸めるみたいに引くことから始めるのだから、風景画も抽象画も一緒だ、と思っていたけれど自分の描き順を思い返すと抽象画を描いたときは大体中央か、中央から少し左下とか右の辺りから始めることが多い気がする。つまり、始まりがすでに違った。今度、同じように始まりから描いてみよう。

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