「有馬記念と雪と聖夜と」(その8・最終話)
着順掲示板には、青背景に白抜きの「審議」の文字が映し出されている。ターフビジョンにも、審議中のため確定まで馬券を捨てないよう注意を促すメッセージが流れる。一着と二着の表示がないまま、着差のところに「写真」とだけ表示されている。三着以下の着順には馬番号が表示されている。トリノサクラは三着、コントドフェが四着だということがわかった。
長い写真判定の間に、雪はまた止んだ。風は湿っており、相変わらず空は低く暗かったが、雲の切れ目から時折、鈍い光がのぞく。
残り五〇メートルを切ったあたりだろうか、内にカリカチュアライズ、大きく離れた外にアールジービーが並び、そのままゴール板を通過した。ターフビジョンではその映像と審議中の表示が交互に流れる。
どちらが勝ったのかわからなかったが、椎名が二度目のガッツポーズをしたため、スタンドがドッと沸いた。
この時、桑原はどう思っていたのか。
「最後、勢いはこっちのほうがありましたが、椎名くんのガッツポースを見て、届かなかったかと思いました。
まぁ、明らかに勝っていたにせよ、私が勝ったわけじゃないですし」
勝ってもガッツポーズはしない。能力のある馬を優秀なスタッフが仕上げてくれた。運良く、自分はそれに乗せてもらえることができた。それ以上でも、以下でもない。桑原はそういう男である。
一方、佐伯は、この時、「ホッとした」のだという。
「なんにせよ、アールジービーは無事に帰ってきてくれた。アールジービーがこんだけやってくれたんやから、結果はどうあれ、これで来年、(アールジービーの父の)チャンスエンラックの種付けが増えるやろと。
自分の手ではもう、血統を残すとかそういうことはできませんから、この有馬記念を見た誰かが、チャンスエンラックの子孫を繋いでくれれば、(結果的に夢が叶うことには)違いはないわけですからね」
これでベストな形で清算できる。佐伯は、無事ひと仕事を終えたような清々しさの中にいたに違いない。
着差が「写真」から「ハナ」に変わる。
一着と二着の馬番号が表示される。
場内に、写真判定の結果、着順が確定した旨のアナウンスが流れる。着順掲示板の「審議」の文字が、赤背景に白抜きの「確定」の文字に変わった。
メッシュの入った前髪をかきあげながら、椎名はこう言った。
「いやぁ、さすがにちょっと恥ずかしかったですね。
内外離れてたんで、ゴールの瞬間は全然わかってなくて、普通に勝った思て無意識にガッツポーズしてました。
なんかスタンドはざわついてるし、桑原さんと目があった時に、なんともいえん顔でクビを傾げてはったんで、ん、これはどういうことやと。
スタンド前に戻ってきてターフビジョンでリプレイ見たんですけど、ギリギリ残ったかと、思わずもう一回ガッツポーズが出てもうたんです」
もう十数年も前のことである。しかし椎名は、柄にもなく頬を赤らめた。そして、静かに表情を変え、少し考えた後、一言つぶやいた。
「今思たら、結局、そういうところなんでしょうね」
その「結局、そういうところ」という言葉に、椎名の経た年月が感じられた。
乗っていた馬の名が「カリカチュアライズ」だったというのも、偶然ではあるまい。
「なんと、勝ったのは九番人気のアールジービー!
赤、緑、青の三原色が、真っ白なクリスマスを見事に染めました!」
青野のやや震えた声が響いた。
結果は、ハナ差でアールジービーの勝利だった。
有馬記念の夜、雪は止んだ。雪はなくとも、街も人もクリスマスムードに華やいだ。
桑原は帰宅して、珍しくウイスキーを一杯、ロックで飲んだ。
自分の人生にも一日くらい、こんな日があってもいいんじゃないかと、独り、涙を流したという。
馬の鼻面を軽く撫でた後、呼吸を整え、目をつむっている。しばらくの沈黙の後、彼女は吹き出した。
「だって、このコ、『ゴハン、まだぁ?』ばっかりで」
動物との会話を、土屋はまだ諦めていない。騎乗する馬には、一頭一頭、こうしてコミュニケーションをとっているのだという。
「本当にそう言ってるのか、それはわかりません。でも、こうしてると、なんか、そんなカンジがするんですよね」
年が明けて、古希を迎えた五十嵐は、その夏に急逝した。夏休みに帰省した息子夫婦と孫と、琵琶湖畔で水遊びを楽しんだ晩、嘔吐し、誤嚥から肺炎を起こしたのが原因だった。
「急だったので、驚いたというか、最初はピンと来なかったです。
最後に先生にお会いしたのが、コントドフェのヴィクトリアマイル連覇のお祝いの席。最後の言葉も正直覚えてないくらいで。
お葬式の時も、もちろん悲しいんですけど、なんていうのかな、実感はなかったです。
(コントドフェの引退レースである)ジャパンカップの前に、どう乗ろうか考えてたんですけど、その時ですかね、あ、もう先生に相談できないんだなぁって……」
土屋は顔を背けた。形の良い耳と透き通ったうなじが、少し紅潮したように見える。小さくため息をついた後、向き直し、こう続けた。
「先生には本当に感謝してもしきれません。
できれば、キチンとお礼の言葉をお伝えしたかったですね」
昨年リーディング六位となった土屋は、来年から拠点を海外に移すのだという。人脈もコネもない海外では、騎乗機会を得ることすら容易ではない。しかし、それこそが今、最も必要なことなのだと、彼女は力強く語る。
本当の力を試してみたいという土屋の言葉には、何のフィルターもかかっていない、素の自分の限界を見てみたいという、土屋自身の胸の高鳴りのようなものが感じられた。
来栖は少し自慢げに言った。
「もうすぐ六年生になるんですが、ちょっとアイドルみたいでしょ」
あの有馬記念の年に生まれた女の子は、スマートフォンの画面の中で、モデルのようにすました顔をして、こちらを見ている。
鼻筋が通って面長で、小学生にしては大人びた顔立ちだったが、クールに見せようと背伸びをするような上目遣いが、却って来栖に似たくりっとした目を際立たせ、アンバランスな魅力を放っている。
「でも実はね、親をやりながら、ちょっとビビってるんですよ」
聞けば、父親と一緒に歩いているところを友達に見られるのが恥ずかしいと、娘が言うようになったそうだ。
「カッコ悪いんですけど、娘もいずれは結婚するのかなとか……
この先、親をやっていけるか、とか言ってたクセに、ホント身勝手ですよね」
元来、心配性なところがあるのだろう。我が子であっても、騎乗する馬であっても、来栖にとっては違いはないのかもしれない。大切に思う気持ちが強いからこそ、心を砕く。そういう思いを重ねた結果だろうか。昨年、ついに念願のリーディングトップに立った。もう誰も来栖のことを「来栖さんとこの息子さん」とは呼ばない。
年末には四人目の子供も生まれたのだという。
「家庭ももちろんですが、先生方や厩舎スタッフ、騎手仲間、ファンの方々、いろんな人に恵まれて、何とかやれてるだけですよ。
結果に関わらず、馬たちには感謝しかありません。
そういえば、シーナくんが引退の時に言ってくれたんです。『迷ったらとにかく馬を信じろ。あとはお前やったら、何とかなるから』って。馬を信じて、ただ愚直に乗ってたら、こうなっていた。
それだけの話ですよ」
四十路の足音が聞こえる年齢にも関わらず、その柔和な顔には、坊主頭にガッツポーズで写真に写っていた、あの少年の頃の面影がうっすら漂っていた。
椎名が騎手を引退したのは、有馬記念から三年後のことだった。
「あの有馬記念は、予想外のトラブルの後、むしろ馬場の悪い内に入れた判断があったから二着まで持って来ることができた、あれは好騎乗やった……みたいな評価やったんですが、自分の中では、もうこの先、厳しいかもなぁと思てました」
この時点で彼は、身勝手な騎乗を止められなくなっている自分に、限界を感じていたという。競馬は騎手だけの力でどうにかなるものではない。自分の能力の誇示に固執することは本末転倒であり、プロ失格であるということを、椎名自身も理解していたのだろう。そこから逃れようと焦れば焦るほど、結果が出せず、苦しいシーズンが続いた。
「その後も、浮上のきっかけを掴めんままで、情けないですけど、まぁ、心が折れたというか。最後は逃げ出すように辞めました。
しばらくは何も出来ませんでしたね。昼間から酒飲んで、ブラブラして、パチンコ行って、また酒飲んで……
ちょうどワイドショーなんかで騒がれたんもこの頃(京都・木屋町通りの路上で泥酔した学生集団に絡まれ、暴力沙汰になった)で、何をやってもダメ、どん底でした」
もともと祇園の街よりも、猥雑で若い活気が感じられる木屋町の方が好みだったが、そういった事件の影響もあり、木屋町通りを歩き辛くなった。そもそも競馬を辞めたわけだから、もうどこへでも好きなところに引っ越しすればいい。しかし、なかなか京都から動くことができなかった。トレセンのある滋賀の栗東と自宅のある京都の往復。今まで費やしてきた時間が全て無駄なのだとしたら、今の自分に何があるのか。この先、何を目指せば良いのか。
祇園祭の行われる京都の夏、皆、マスク姿で、誰も気に留めないのはわかっていても、「トラブルを起こした元騎手」と気付かれないよう、下を向き、浴衣姿の観光客で賑わう夕暮れの先斗町(芸舞妓たちの稽古場や茶屋、料理店などのある、昔ながらの趣を残す通り)を足早に歩いた。三条大橋の上から見える鴨川は、川床の灯りを映しながら、緩やかに流れている。川床の方からは、時折ドッと笑い声が響く。三条大橋の真ん中で、もうこの街にも居場所はないのかと、鴨川を眺め続けるだけの夜を幾度も過ごしたという。
食っていくためには仕事は選べなかった。過去のトラブルをネタにしたコントをやったり、地方イベントで亀のレースの解説をしたり、週刊誌のグラビアで引き締まった裸体を晒したこともあった。
競馬から逃げた報いなのか。
全てに意欲を失っていく自分を感じながら、どうすることもできず、ただ絶望感だけを味わっていた。
その日の仕事も、椎名にとっては気の進まないものだった。インターネット番組のトークイベントだったが、暴露話で盛り上がる悪趣味な内容で、椎名は出演したことを激しく後悔した。しかし、そこで出会った、椎名の熱烈なファンだという若い漫画家と意気投合し、ネット上で競馬を題材にしたマンガを一緒に連載することになる。椎名は原作者としてマンガに関わったが、作品がスマッシュヒットとなり、そこから少しずつ仕事の幅が広がっていく。
今、椎名は動画配信に夢中なのだという。椎名らしい独自の視点で競馬の楽しさを伝える動画は、騎手時代の椎名を知らない若い層にまで人気が広がり、登録者数が急激に伸びているのだそうだ。博識ながら、その口調は親しみやすいため、競馬初心者にとってもわかりやすいのだろう。何より、ルックスがよく、キャラが立っている。
「できることやなく、やりたいことをやってたら、肩の力が抜けてるので、全部出しきれる。いや、持ってるもんが勝手に漏れ出るカンジかな。
そしたら、知らん間に評価がついてくる。シンプルに、それだけのことなんでしょうね。なんでそんな簡単なことが、わからんかったんやろなぁ」
来栖にライバル心を持っていたわけではない。自分を認めない、自分を蔑ろにする世の中に、一方的に復讐心を抱いていただけだったのかもしれない。彼の少年時代がもっと違う形だったら、今も騎手を続けていただろうか。いや、そもそも、騎手になっていただろうか。
その年の有馬記念のレース映像は、競馬における名勝負のひとつとして、様々なところで今でもよく流される。最後の直線、残り二〇〇メートのあたり、前で競っている三強の後方、大外にアールジービーが突っ込んでくるのを、ようやくカメラは捉えらる。この時、どういうわけか、桑原は右手に持った鞭を左手に持ち替え、アールジービーに左鞭を一発入れる。利き手の右に持った鞭を、わざわざ左手に持ち替えているのだ。横には馬はおらず、大外、単騎のような状態なので、他馬に配慮して持ち替えたとは考えにくい。
その件について桑原に確認すると「オーナーの指示だった」と語っている。佐伯が振り返る。
「あぁ、そうです、そうです。
まぁ、指示というか……実はね、有馬記念の前週、追い切りの後、桑原さんと雑談してて、その時に、アールジービーが有馬記念を勝つ夢を見たという話をしたんですよ。左鞭を一発入れたら、ビューっと急加速して勝ったと。どうも桑原さんは、そんな話を覚えててくれたみたいで」
アールジービーを手放し、馬主でもなくなった佐伯は、やがて社長でもなくなった。私財を投げ打ち、店長と最初に作ったパソコンショップの営業権だけを買い取り、一から出直すことにした。
「清算しても、それだけはどうしても手放したくないと思て。そこから、もう一度やり直そうと。
食パンばっかり食べながら、家族やアルバイトの子らと、とにかくがむしゃらに働きました。五〇前でしたから、さすがに体はキツかったですけど、なんか昔を思い出して、ちょっと楽しかったですけどね」
インターネットへのアクセスデバイスが、パソコンから携帯電話、スマートフォンへとシフトしていく流れを、佐伯は上手くビジネスに取り込んでゆく。早い段階でパソコン専業のショップから、アクセサリまで含めた情報機器全般を取り扱う業態へと転換を図ったことが奏功した。店長仕込みの先読みだった。
人は亡くなっても、こういう形で誰かの中に、残っていくものなのだろう。
「法人化して、少しずつ、店も増えて。ようやく会社らしくなってきたんは最近ですかね。
過去の話はもちろん、夢のこととか、会社のみんなも知ってくれてるんで、馬主登録申請が無事通って、馬主に戻れた時、居酒屋貸し切ってお祝いしてくれたんですよ」
スマートフォンの画面を見せながら、佐伯は破顔した。そこには、仲間たちに囲まれ、大きな口を開けて喜びを爆発させる、佐伯の最高の笑顔があった。
一度は途切れかけた夢。自分が生きている間に、血の物語を繋ぐことができるかもしれない。
再起と言うにはまだ途上である。
中山競馬場の正門前広場には、樹齢百年を越えるといわれている、大きなヒマラヤ杉が植わっている。その日はヒマラヤ杉もクリスマス仕様にデコレーションされ、来場者の目を楽しませていた。雪化粧と呼ぶには物足りないうっすらと積もった雪は、降り出したみぞれで逆に溶かされ、氷混じりの水滴となって、ポタポタと地面へこぼれていく。
「有馬記念に出走させるのは、まだ無理ですけど、馬主として、有馬記念の日に、中山で平場のレースに出走させられただけでも、めちゃくちゃ嬉しいですよ」
残念ながら佐伯の愛馬は、その日、勝利することができなかった。しかし、そのまま馬主席で有馬記念を観戦することができ、胸がいっぱいになったことだろう。
十数年前と同じように、少し遅れてファンファーレが鳴る。みぞれは、本格的な雪に変わった。
今年の有馬記念は、波乱のない、本命同士の決着となった。
全てのレースが終わり、外に出てみると、すっかり暗くなっていた。正門前広場のヒマラヤ杉は、イルミネーションが点灯し、無数のオレンジ色の光が柔らかく辺りを照らしている。
「だって、クリスマスで雪でしょ。馬場もあの時と稍重。こりゃ、なんかあるなぁと思ったんですけどね」
ハズレ馬券を愛おしそうに眺めながら、佐伯は苦笑した。
クリスマス、雪、稍重。それは、十数年前の、あの有馬記念とまったく同じだった。
アールジービーの勝った有馬記念を当てた人がいる。
「正月に会った時、とにかく親父は、大はしゃぎしてましたね。アールジービーの馬券のコピーを見せながら、何度も何度も『これはアールジービーを軸に流してるところがミソなんだよ』と自慢気に話していました」
余程嬉しかったらしく、すっかりアールジービーのファンになった青野の父親は、競馬場の売店でアールジービーのぬいぐるみを買ってきて、その背中に件の馬券のコピーを立て掛け、リビングのテレビの横に飾っていたという。
そんな青野の父親も、有馬記念の翌年、夏の終りに亡くなった。肝ガンだった。
最期もやはり、病院のベッドの上で、競馬新聞に赤ペンでメモを書き込んでいたという。
「だから、親父にとっては、結局それが最後の有馬記念になっちゃいましたね。
もう十年以上前の話って……早いですね。そりゃ歳もとりますよね」
突き出た腹を擦りながら、大きな声で笑う。
父親が最後の有馬記念で、息子の失敗よりも、難易度の高い馬券を当てたという喜びの記憶とともに亡くなったことには、青野も少し救われたのだろう。
長く競馬をやっていれば、そんな生涯忘れ得ぬ思い出の一鞍が、誰にでもある。息子から見て、同じことの繰り返しのように見えた青野の父親の競馬人生は、きっと楽しいものだったに違いない。
青野が面白いことを言った。
「学生時代、こう二つの方程式のグラフがあって、交点を求めよ、みたいな問題あったでしょ?
競馬やってると、アレ思い出すんですよ。
それぞれの人生、みんな違った複雑な波を描いてて、それが何かで交わることがある。年間三〇〇〇以上のレースが行われている中で、毎回そんなことが起こってるわけですよ。
そう思うと、自分の仕事もまんざらでもないな、と思うんですよね」
窓ガラスの水滴がゆっくりと線を描く。あられが雨に変わったのだろう。高層階から見る東京の空は、厚い雲に覆われていて、手が届きそうなほど低い。
窓際に身を寄せ、左手に持った無線機をしきりに動かしている。右手にはハンドマイクが握られている。最近、青野は無線の趣味を再開したらしい。聞こえたコールサインのようなものを、無心にメモしている。高所だと遠くからの思わぬ電波を拾うことがあるのだそうだ。青野は、しばらくの間、ここで「ワッチ(ある周波数帯でどのような電波が届いているか確認すること)」してから帰るのだという。
別れ際、「あっ」と何かを思い出したかのように振り返り、青野が言った。
「そういえば、先日の有馬記念の前、金曜の午後にちょっと仕事を抜け出しましてね」
中央競馬のG1レースは、多くの場合、当日だけでなく前日の土曜日にも馬券が発売される。ダービーなど特に注目の高いG1レースについては、さらにその前日、金曜日にも馬券が発売される。有馬記念も金曜日に馬券発売されるG1レースだった。
「後楽園のウインズ(場外馬券場のこと)で金曜発売の馬券買って、首都高飛ばして……
実家の親父の仏壇にね、供えてきたんです」
そう言って、青野は少年のような笑みを浮かべた。
奇しくもその馬券は、佐伯の買った馬券と全く同じものだった。
それは、先日の有馬記念に唯一出走していたアールジービーの仔、一四番人気だったマルテツスカイからの馬単総流しだったという。
<了>
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