見出し画像

「有馬記念と雪と聖夜と」(その3)

  馬主(オーナー)の所有する競走馬は、厩舎に預託される。調教を行う調教助手や馬の身の回りの世話をする厩務員などのスタッフをまとめる厩舎のトップが、国家資格である調教師免許を持つ調教師である。

 馬は一頭ずつ仕切られた馬房で管理されるが、厩舎の経営状況や調教技術により、管理馬房数は増減する。馬を預かり調教することで得られる預託料と、レースに勝って得られる賞金が収入源のため、有力馬を多く預かるほど有利になる。そのためには沢山勝って、馬房数を確保する必要があるということだ。勝たなければ未来がない、優勝劣敗、真剣勝負の世界である。

 調教師の五十嵐勇は、痩せこけた小さな体、目を細めていつもニコニコと穏やかな表情、そしてトレードマークの白髪白鬚の好好爺然とした風貌から、関係者から「爺さん」という愛称で親しまれていた。

 煙草フィルターの端をくわえ、煙草を上下にブラブラ揺らしながら話す独特のスタイルは、関係者の間でよくモノマネのネタにされた。物腰は柔らかく、口数も少なかったが、預託された馬は、取引価格、血統、クセなど、どんな馬にも関わらず結果を出しており、屈指のトレーナーとして名が通っていた。

 翌年には定年で引退することが決まっていたが、その年も四歳の牝馬(メスの馬)コントドフェで、春には「ヴィクトリアマイル(東京競馬場一六〇〇メートルで行われる牝馬限定のG1レース)」、秋には「天皇賞(秋)(東京競馬場二〇〇〇メートルで行われるG1レース)」とG1をすでに二勝していた。

 特に天皇賞(秋)は、前年の同レース覇者であり、その時点で古馬(四歳以上の馬)最強と思われていたトリノサクラとの初対決だったが、クビ差ではね退け、コントドフェが最強馬候補に躍り出た、鮮烈なレースだった。しかし、その翌月の「ジャパンカップ(東京競馬場二四〇〇メートルで行われるG1レース)」ではトリノサクラに、同じくクビ差で逆転を許してしまう。最強馬の名を賭けて、二頭は次走の有馬記念で三度激突することになっていた。

 当時の雑誌のインタビューで五十嵐は飄々と語っている。

〈状態はかなりいいですよ。相手(トリノサクラ)の強さは充分わかっているし、他の馬も決して侮れないですよ。こっちとしては完璧に仕上げてぶつかっていくしかないと思っています。それだけですよ。

 ただ、(コントドフェは)気の強い馬なので、「次は負けないわヨ」なんて思ってるんじゃないですかね(笑)〉

 五十嵐は調教師として多くのG1タイトルを獲得している。ホースマン(競馬関係者)の憧れ、一生に一度でも優勝できれば最高の栄誉とされているダービーなど、二度も勝っている。

 しかし、意外にも、有馬記念は、まだ取ることができていないG1タイトルのうちの一つだった。年が明けて一月八日になれば、五十嵐は七〇歳となり、定年を迎えることになる。その有馬記念は、五十嵐にとって人生最後のG1であり、タイトル獲得のラストチャンスでもあった。

 調教師として七四五勝し、名伯楽と謳われた五十嵐だったが、騎手時代の成績は平凡なものだった。二九年の騎手生活で七一六三戦四九二勝、勝ち鞍がひと桁という年もあった。重賞二一勝、G1はたったの一勝しかしていない。

 何とも不思議な巡り合わせである。その一勝が、有馬記念であった。

 

 雑誌に掲載された五十嵐の写真から外した視線を、遊ぶように宙に浮かせ、柔らかく微笑みながら彼女は言った。

「だから本当は、有馬記念、取りたかったでしょうね……すごく」

 「鉄の女」と呼ばれ、今やトップジョッキーとなった土屋優子にとっても、その有馬記念は特別だったようだ。

「今までの自分の騎乗の中で、完璧な騎乗なんてありません。いつもどこか、あぁ、もっとこうすれば良かったとか、もっとこうできたのに、という思いがあるんです。やり直せたら、もっと上手く乗れるのにって。

 もう一度やり直せる騎乗があるとしたら?

 やっぱり、あの有馬記念、ですかね」

 斤量(負担重量のこと。出走するレースごとに競走馬が背負わなければならない重量で、騎手自身の体重やプロテクターなどの所定の馬具で重量を調整する)の関係もあって、騎手には細身で身長の低い者が多い。土屋も一四八センチだ。しかし、背筋がピンと伸びていて、姿勢の良いところに、プロスポーツ選手らしい矜持や芯の強さがうかがえる。

 艶のあるキラキラとしたセミロングの黒髪を、後ろで無造作に束ねた髪型も、大人の色気の中に確かな強さのようなものを感じさせる。そして何より、中央競馬のトップジョッキーの一角を担っているという余裕が漂っている。

 競馬学校を卒業後、騎手免許を取得し、五十嵐厩舎所属の騎手としてデビュー。同月、未勝利戦で初勝利を挙げ、一年目に三八勝をマーク、最優秀新人賞を受賞した。

〈競馬界にニューヒロイン誕生!〉

 マスコミにもて囃されながらも、集中力を切らすことなく、二年目にはすでに重賞制覇を達成、三年目の秋には「マイルチャンピオンシップ(京都競馬場一六〇〇メートルで行われるG1レース)」で劇的なG1初騎乗・初勝利を挙げ、「優子フィーバー」を巻き起こした。

 当時の雑誌で、土屋は初々しくこう答えている。

〈一鞍一鞍、精一杯やるだけです。

 でも、私の姿を見て、女性が競馬や騎手に少しでも関心を持ってくれると、ちょっと嬉しいかな〉

 一鞍、つまり一レースを大切に乗る。騎手として当たり前のことではあるが、それは師である五十嵐の、騎手時代の信条でもあった。

 そんな土屋のことを、五十嵐はどう見ていたのだろうか。

「さぁ、どうでしょうね。とにかく(五十嵐)先生は、いつもニコニコされてましたね。

 私の騎乗については何もおっしゃらず、『乗りやすいええコやろ』とか『ちょっと臆病なところあるから、優しくしたってや』とか、馬のことをよく話されていました。

 一頭一頭の個性を丁寧に説明していただいたおかげで、『あぁ、このコはこういうのが得意なんだな』とか『このコはこうやったほうが気分良くやってくれるな』というのがわかるようになりましたね」

 奥二重だが切れ長の鋭い目もとが、少し緩んだ。

 爺さんと孫娘。

 二人は師弟というより、そんなカンジだったのかもしれない。

 五十嵐のもとで競馬を覚えた孫娘は、着実に力をつけ、本格的な騎手へと成長していく。

「何もわからず無我夢中でしたからね。毎日寮に帰ると、倒れ込むように寝てました。それぐらいヘトヘトで……

 でも毎日が楽しくて仕方がなかったです」

 東京生まれの東京育ち。大都会のど真ん中で生まれ育った、生粋の都会っ子だったが、スレたところがない。土屋は、幼少期の自分を「一風変わった少女」と表現した。

「もともと動物は好きだったんですが、動物と会話ができる人がいるとテレビで知って、自分の目指すべき道はコレだ、ってカンジで。ウチはマンションでペットが飼えなかったので、学校から帰ると、すぐに近くのペットショップに行って練習してましたね」

 恋愛やオシャレといったことに関心を示す、少し背伸びをするような年頃になっても、土屋はひたすら、どうすれば動物と会話できるのかを探求し続ける。本を読んだり、ネットで海外の専門家の動画を見たり、その分野の第一人者が主催するワークショップにも、頼み込んで特別に親同伴という形で参加させてもらうほどの熱の入れようだった。言葉を選びながら、土屋が答える。

「彼らは、様々な形で我々に惜しみない愛を与えようとしてくれてる……何ていうのかな、そういう感覚はわかるようになりました」

 中学生の頃、大井競馬場のバックヤードツアーに参加したことがあった。

 日本の競馬には、日本中央競馬会(JRA)が主催する中央競馬と、地方公共団体などが主催する地方競馬がある。大井競馬場は地方競馬の競馬場で、その主催者である特別区競馬組合の職員だった伯父が、動物好きの土屋を招待してくれたのだ。

「そこで初めて競走馬を見ました。とにかくキレイだなぁと。その時はその程度の記憶しかないですね。あと、飛行機の音がうるさかった……とか」

 そう言って、間抜けな回答をした自分自身に可笑しくなった、と土屋は笑う。チャーミングな姿は、「鉄の女」という印象から程遠い。

 それ以来、何となく見るようになった競馬だったが、特に強く惹きつけられるものはなかったという。大人になったら動物園の飼育員、それがダメならペットショップの店員、そのいずれかと心に決めていた。

「なんか『美しく勝ちたかった』って。

 テレビの画面越しに、勝ち馬を見た時、そう言ってるようで。表情も妙に人間臭くて。本当に桜も舞ってて。映画みたいで。

 このコは多分、ただ勝つんじゃなくて、美しくありたいって思ってたんだろうなって」

 それは、当時デビュー三年目だった椎名清騎手が、ハナノウキハシでG1初勝利を達成した「桜花賞(阪神競馬場一六〇〇メートルで行われる三歳牝馬限定のG1レース)」だった。四番人気だったハナノウキハシが、最後の直線、最後方から一気に差し切る、鮮やかな勝利だった。椎名騎手は勝利ジョッキーインタビューで、こう答えている。

〈自分のG1初制覇も、もちろん嬉しいですが、それよりも、これぞハナノウキハシという美しい勝ち方ができて、あぁ、上手く乗れて良かったと、ソッチのほうが嬉しいですね〉

 美しくありたい、強くありたいといった、自分なりの理想を求める気持ちは誰にだってあるだろう。それは動物でも同じなのではないか。馬と騎手が、「美しく勝つ」という同じ理想を抱き、共にそれを目指す気分は、どんなものだろう。土屋の気持ちは高ぶった。

「実際、競馬学校に入ってからも、毎日毎日ずっと動物と一緒だなんて、パラダイスだなぁって、独りでニヤニヤしてました。

 私って変ですかね?」

 眉間にできたシワがふっと消え、凛とした表情が崩れた。


 五十嵐厩舎の後、別の厩舎に二年所属し、フリーの騎手となった。その年、最高勝率騎手の賞も受賞している。順風満帆に見えた土屋だったが、本人の中では少しずつ違和感を覚え始めていたという。

「二〇代の頃はずっとアイドルのような扱いで、ちやほやされてうれしい気持ちは確かにありました。芸能プロダクションとマネジメント契約してたので、テレビやネットの番組にも出させていただきました。

 でも、だんだん競馬に集中できなくなるというか、そういうのが大きくなっていって、あれ、なんか違うなと……」

 この時期でも土屋は年々、着実に勝鞍を重ねている。勝利数は右肩上がりなのである。しかし、聞かれるのは恋愛事情、舞い込んでくるのは水着グラビアの話。人気商売の残酷な現実が顔を出す。騎手として結果を出せば出すほど、世間から「そこじゃない」と言われている気がして、求められる自分と理想の自分の間で、土屋の心は揺れ動いた。

「そう、だからちょうど、あの有馬記念の後ぐらいからかな、イベントとかに呼ばれても、いろいろ意識するようになりました。

 でも、そうなったらなったで、いろんなことが気になりだして。

 有馬記念も女性騎手と牝馬の組み合わせでしたでしょ?

 だから、スポーツ紙なんかで『女の時代、本格到来!』とか書かれて……ね」

 同意を求めるように頷きながら、土屋が困ったような顔で笑う。一口飲んでから手に持った紙カップを机に戻すと、何かを思い出したのか、少し表情が曇った。

 このままではマズい、何とかしなければ。

 そう思えば思うほど、馬に、競馬に向き合う時間も集中力もなくなっていく。

 ファン向けのイベントに騎手が出演することは珍しいことではない。イベントの主催者側としては、集客のためにも人気騎手を求める。土屋がそのイベントに呼ばれるのは、当然といえば当然であった。

 土屋はこの頃、競馬の広報活動を精力的に行っている。ある思いがあったからだ。

 競馬人気拡大のための広告塔というような大それたものではない。騎手という仕事は、もはや男性だけのものではない、女性でも普通に活躍できる仕事であるということを、もっと広く知ってもらいたい、そんな月並みなものでもない。

 この、真剣勝負の世界に身を置く女性騎手であるという思いに、ただ共感してくれる、そういう「仲間」が欲しかった。競馬における、単なる勝ち負けだけではないものを、まだ二〇代だった土屋が背負っていたということなのだろう。

 イベント中、大きなレンズを付けたカメラで、ずっと斜め下から土屋を撮影している客がいた。ステージ上にいる、珍しくスカート姿をした土屋は、早い段階でその客に気づき、困ったなと思っていたらしい。イベントが終わって、ステージから降りようとした時、その客はおもむろに土屋に近づくと、ノースリーブから伸びた土屋の白い二の腕をガッとつかんだ。

 犯人はその場で取り押さえられたものの、現場は騒然となった。

 しかし土屋は、冷静だった。

 すぐに笑顔でファンに手を振り、自分は大丈夫であることをアピールする。

 彼女にも覚悟があった。

 例えば、周りが男性ばかりであるとか、女性用トイレが少ないとか、そんなことはこの世界を目指した時点でわかりきっていたことだ。

 しかし、時間をかけて少しずつ開かれてきた扉が、こんなことで、こんな生物学的な違いに起因する一方的な都合で、蓋をするように閉ざされてしまうことに、どうしても彼女は我慢ならなかった。伏し目がちに土屋は語る。

「負けたくなかったんでしょうかね。

 うまく説明できませんが……」

 この事件は当時一般紙にも取り上げられる大きなニュースとなった。皮肉にもそのせいで、これまで土屋のことを知らなかった層にまでその存在が知れ渡ることになり、土屋の人気はさらに跳ね上がる。

〈美しすぎる女性ジョッキー〉

 そういう見出しを見るたびに、苦い思いに駆られた。少しずつ溜まっていたコップの中の水が溢れるように、「なんか違う」が、土屋から溢れ出した。

 小さなミスを連発するようになった。

 彼女の顔から笑顔が消えた。

 勝てなくなった。

 休業届を出し、姿をくらました。

 騎手を、競馬を辞めようと考えた。

「海外に行こうと思ったんですが、あの頃はまだ渡航制限があって……

 結局、友達の家に匿ってもらって、ひたすらゴロゴロしてましたね。朝起きて、ゴハン食べて、友達が出勤するのを見送って、洗濯して、掃除して、晩ごはん作って」

 そこに流れていたのは、大人になった土屋が初めて経験する、普通の時間だった。

「起きたら夕方だった、なんて中学の夏休み以来でしたね。

 マンションから見る夕陽がキレイで、子供の遊ぶ声が聞こえて、時間の流れがとてもゆっくりで。

 意味もなく涙が溢れて、止まらなくなって。

 私、これからどうなるんだろう。

 もう、終わりなのかなって」

 若いからとか女だからとか関係ない、私は上手に競走馬を走らせることができる、もっともっと上手に馬を走らせることができる。

 本当は馬ではなく、土屋こそが、誰よりもずっとずっと長い間、休むことなく走り続けていたのだろう。

「どうしてだったかな、たまたまネットで、あの有馬記念の動画を観たんですよね。

 ホント、何かの検索してたら偶然目に入ってきて、あぁ、懐かしいなぁって、思わずポチッと」

 調教師としてだけではなく、五十嵐にとって競馬人生の最後の有馬記念、その意味は、当時の土屋も充分に理解していたはずだ。持てる力を全て出し切ったに違いない。そのレースから、技術的なこと、精神的なこと、実に様々なことを学んだことだろう。

 しかし、師匠である五十嵐は、その有馬記念を通して、土屋にもっと別のことを伝えたかったのではないだろうか。

「もう何年も前のことなのに、ここはこうだった、もっとこうできた、なぜここでこうしたのか……

 そんなことを考えていたら、ふっと、自然に思ったんですよね、また乗りたいなぁって」

 土屋優子はターフに戻ってきた。

 前にも増して競馬に対してストイックになった彼女に、まわりの人間は「雰囲気が変わった」と訝しむように言った。いつしか「鉄の女」と呼ばれるようになっていた。

 もう「仲間」など求める必要はない。そこには、ただ競走馬に乗りたいだけの、競馬好きな一人の騎手がいるだけだった。

 土屋は今でも、何かあると、あの時の有馬記念の映像を見るのだという。

 目の前に現れた長い長い階段を見て、途方に暮れることがある。とても登れないだろうと思いながらも、ゆっくりと一段一段登っていき、少し休憩しようと振り返った時、眼下に広がる景色に、あぁ、もうこんなところにまで来たのかと感じることがある。

 人生にもそんな瞬間がある。

 

#創作大賞2023 #まつりぺきん #小説

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?