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批評と批判は意図して分ける

表題の通り。
現在において、この場では発信者である私が意図して置いていく言葉に、受け手である読者のみなさんとの感覚に乖離が生まれたとき、その齟齬や誤解を埋めるのは到底無理だと考えた。
なので、きっと大したことではないと思いつつも、そのことについてどう考えているのかを文字に起こした。

①前置き


「こう思う」や「そう思ったから嫌だった」といった感想や意思表示を、そのまま「批判」や「攻撃」と捉えていただきたくない。
そもそも、個人への攻撃のために文章をしたためたくない。
批判は、他者に向けた攻撃ではない。
物事に対する認知の歪みや敬意のなさに対する疑問提起だ。

認知の歪みを正されたり、もしくは正したりすることはあれど、そのやり取りは敬意がないと存在し得ない。
少なくとも前後の文脈をある程度把握した状態で、手を挙げ、発言すべきではないだろうか。
いわゆる「見出しだけで判断するな」。

インターネットの海は広い。
見渡せないところまで誰かが居続ける限り、これらは贅沢な願いかもしれない。

どんなものでも創作物や思いを発信した時点で、それらが意図しない方向へ手を離れてしまうことはある。
仕方がないことだ。

②言葉の意味


前置きは一旦置いておいて、まず言葉の意味から捉えよう!と調べてみた。検索したら上に出てくるgoo辞書から引っ張ってきた。

なるべく誤解のないような言い回しをしたいが、いかんせん己のスキルが伴わない上に的外れなことを言うことは目に見えている。
それでも観測範囲内では捉えられ方が違って見える、前述の語句ふたつについての意味が以下である。

■批評
物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。
goo辞書より
■批判
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
goo辞書より

批判には、少なくとも辞書上には3つの意味が載っていた。
1つ目の項目を見たときに「評論とあまり変わらない」と思った。そして、捉えられ方も捉え方も違うんじゃないか、とも。

ではなぜその認識に齟齬が生まれるのか。

現在において主な文脈で使われているのはどの項目だろうか、という観点から見ると明らかだ。
2つめの項目「誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。」ここだ。もう、ただひたすらにここ。この文脈で使われているのだ。
これが行くところまで行くとただの攻撃になる。個人批判になる。
また攻撃は非常に目につきやすく、そして扇動に繋がりやすい。いわゆる炎上だ。

私は何かしらの文献を読んで内容を「批評」をしていた。
その「批評」は「論評」だった。
「論評」の意味は以下の通り。

■論評
物事の価値・善悪・優劣などを批評し論じること。また、その文章。
goo辞書より


今ではからっきしだが、数年前はそういうことばかりしていたような記憶がある。
批評と論評はセットである。そして、批判。

ここで私は「批評」と「批判」を明確に線引きしている。

③使い分けとその運用


「批評」は作品や物事についての感想のほか、文脈の捉え方に因る持論を述べるときに使う言葉。
そうまでしたい作品に対する感情はおよそプラスに働く。
圧倒されたり、渦に巻き込まれたり、知らない感情を得たりと、形容できない気持ちになり「いいものを観た」としか言えなくなることが多い。

「批判」は己の中でどうしても間違っているという事柄があったときに使う言葉。
文脈に合わない言葉や解釈をぶつけて無理やり新解釈とする手口はあまり好ましくないと感じるので、そういうのを見たら批判に変わる。
そして、納得できなかった理由を述べる。

「批判」ベースだとしても、当人と己とですり合わせができたら万々歳である。
なぜなら、それぞれ違う意見を持ち合った上で理解し合えるのであれば素晴らしいからだ。

しかし、対話ができないのであればもう、意味がない。互いにとって無為である。
だいたいの場合において、そういう場だと片方は、ともすれば双方が感情的になっている。
双方の距離感がおよそ通常時とは違う。対話をするには厳しい状況が多いのではないか。

パブリックな場でやるには分が悪い、売り言葉に買い言葉状態であればどちらでもいいが、自己発散の場として使っている側の最終地点を見てみたら「落ち着けよ」と思わせるには十分なやりとりをしている。
自分はよくある。甚だ遺憾である。

しかし、表現の自由の有様を勘違いしてはならないというだけは念頭に置いている。
インターネットの匿名性なんてとっくに終わっているからだ。

批判は、他者本人に向けた攻撃ではない。
発言がただの個人攻撃であってはならない。
これは物事に対する認知の歪みや敬意のなさに対する疑問と提起だ。 

④最後に

無知こそが幸せである、知を得ることが幸せである。
上記に関しては意見が分かれることだろう。思いだけなら千差万別あって然るべきだ。
いずれも選べたらよかった。しかしどうにもいかない。
「無知の知」が未だに多用される意味は、いつでも知ることができる。

文頭に記した数行に戻る。
「この場では発信者である私が意図して置いていく言葉に、受け手である読者のみなさんとの感覚に乖離が生まれたとき、その齟齬や誤解を埋めるのは到底無理だと考えた。」




「君に伝うわけはないよな」の曲。

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