しでかし
主体と客体について考えてみても自分は客体としての身体を持てるほどおもしろくなく、また主体とするにはあまりにも感覚が剥落していた。
それでも消費されることに対しては明確な嫌悪があるため、どれだけ自己感覚が薄れてしまっても主体で居続けるほかないので、いわゆる生の実感を持たないといけないな、と思った。
そんなことを言っても理不尽な仕打ちに簡単に腹を立ててしまい、あろうことかそれを隠すことができないので、社会は楽しいこともあるが難しいことの方が多い。
怒りを抑えるまで待てるのならば剥き出しの敵意は邪魔になる。そういう賢さを学ばず、得られず、今までここにいる。社交性と社会性、哲学、思想を見つめ直すには鏡がいる。
私はなんにも見ていなかった。
そのことに気付いてからわんわん泣いた。もう遅かったが。
主体と客体の認識差を埋められるかもしれない情報のひとつに適性検査というものがある。エゴグラム等、そういう類の性格診断だ。その手のものは嫌いではない。
同日に同じテストを受けても少しではあるが差異が出るので、あくまでも参考程度のレベル感だが、実際のところ前述の差を埋めるに至ってはいない。
レーダーチャートが均されているのであれば、それはそれで好ましいかな、今の自分は平々凡々なものとして過ごしていられているのだな、と思った。
パラメータの先が丸くても、目立った箇所があっても納得する。あくまでもひとつの尺度である。いいところは伸ばす、何もないならないで、それを大事に抱える。許容と受容だ。
その平らな場所に立ちつつ、それなりに一貫した姿勢で個を出しながら生活しているつもりだが、蓋を開けたら「実際の本人の印象と結果が合わない」「何を考えているのかわからない」という言葉がまま聞こえた。
例えば、初対面の方に人となりを伝えたいとき。そんなもんはこのnoteを一読していただけたら一発でわかっていただける気もするが、さすがにこれを名刺代わりとしてぺいぺいとは出せなかった。
インターネットの海に放り投げたり、見知りの人間にURLを教えたりはできるが、初対面の方にはそれを選ばない。自分なりの分別だと思った。
自分はこのような、些かナイーブな部分を、文字に乗せてばかりいる。気が向いてnoteで記事を書いてみるか、とキーボードに手を置けばほとんど何も考えずに指が動く。
文章を綴るときは毎度、思考より文字出力のほうが早い。所感を吐き出すために日々の連なりのどこかしらを引っ張り出すのに時間をかけることもあるが、0を1にしているわけではないので、ひとつでも燻りがあればそのまま煙を立てられる。まだ、それができる。
この出力の速度を、蛇行した考えを、このままなくしていくのが怖い。もっと清冽な言葉を持っていた時間が確かにあった。時を重ねるごとに豊かさは失われていった。
今のスピードだって、どちゃどちゃと、とにかく文字を目に入れていたときの残滓でしかないと、実感するたびに怖くなる。成長どころか退化している。
自分は文字が読めて、ある程度は書けるほうだと思う。ここには他者評価がある。実体として存在してしまうしょうもない感情を、多少遠回りな書き方をすることで少しはコントロールする、そういう術として持っている。
過去の自分はもう主体として機能しておらず、遠巻きに見るだけになってしまった。インプットとアウトプットを繰り返す日々を、ひとりでやり続けていた、10年も経ってしまったあれはもう客体だった。
今、会ったとして。手を取ってもらえるかはわからないな、と思う。