見出し画像

2023年考えたこと、というより今考えてること。

自分が今考えていることを自分に言い聞かせるように書いていく。
(noteに出すには拙すぎるかもしれません。)

今考えていることは大きく分けて二つ。
修士修了後の進路と人生の目的。
一つと言ってもいいのかもしれないが、見ている時間距離が異なるので敢えて分けることにする。

まずは人生の目的から書き記すことにしよう。
人生の目的は社会貢献である。
これは変えるつもりはないし、これ以外に見当たる様子もない。
ビジネスチックで申し訳ないが、最近考えていることは、人間一人は法人一人。つまり、法人における意思決定と人間における意思決定は大して違いがないだろうというもの。法律で会社に法人格が与えられている云云かんぬんは置いといて、意識を持った人間の意思決定は複雑怪奇でその時々によって変わりがち。もちろん、それが功を奏する場合もある。いわゆるゲリラ戦や連続的な戦略策定時には敢えて直感や運任せにすることが正しいとされる場面もある。
しかし、人生に目的なるものを考えた場合、それは長期的にブレないもの、すなわち会社における経営理念や存在意義にあたる。経営理念がブレない会社はつぶれないし、支えてくれる人がいる。宗教団体はその最たる例であり、彼らは信仰心という考え方を提供し、それを信者が真剣に理解し会得する。そうして100年、1000年と続いている。人間の寿命は100年がせいぜい良いところだろう。となると宗教法人のように1000年も存続するような目的は必要ないものの、100年という短くて長い期間自分を支える、もしくは外部に対して自分を表すものが生きる目的と言えるのだろうと考えた。
無論、この思考プロセスは少々横暴なものであることは否めないが、ある程度力尽くで決めないと先が進まないのでこのまま進めよう。

社会貢献であるという理由について、会社の経営理念のほとんどは社会貢献に繋がるものが多様な修飾語を用いてその会社らしさを反映して作成されている。よって、人間の生きる目的も社会貢献と定めることに何らおかしな点は無いのだろう。漠然としすぎているという意見もあるだろうが、ここは敢えて漠然としている方がよいと考える。
目的と目標は異なるため、あぁこのまま書き進めると自己啓発本になりそうだ、目的を漠然とさせることによって目標を様々なアプローチで設定することができる。仮に目的をガチガチに固めた、目標はこれしかありませんみたいなモノを設定してしまった場合には生きるのが苦しくなりそうだ。その目標が達成されなければ目的も達成されない、すなわち生きる目的を失うことになる。運も環境も絡んでくるのが人生ならば、ある程度幅を持たせた目的の方が柔軟にその時々の状況に対応できるのだろう。

目的は変えずに目標を変える、そうすることで自分の存在意義を固定化し、自分とは何か、何をするべきなのかを明らかにすることができるだろう。

それと、社会貢献というものについて、個人的には複数のフェーズがあると考える。

第1のフェーズは既に過ぎ去っているが、0から20歳までの20年間。
この期間は自分が社会から与えてもらう期間である。経験はもちろん、お金も与えてもらう、社会から吸収する20年間である。

次は現在も含まれる21歳から40歳までの20年間。
この期間は自分からあなたに与える期間である。あなたという書き方をしたのは、所謂二人称の間柄に対して自分の提供価値を与えるということである。言い換えれば、家族、親族、友達、先輩、後輩、上司、部下このあたりになるだろうか。今の状況では何を提供できるかわからないし、自分自身が40歳までにどの程度の影響力を持てる人間かはわからない。しかし、上で挙げた範囲であれば、ほぼ間違いなく自分自身の価値を提供することができる。価値には時間もお金もサービスも労働も含まれる。この期間は身近な人へ返す期間。

次は41歳から60歳までの20年間。
お判りかもしれないが、彼彼女らへ与える期間である。3人称ということは自分が知らない誰かも含まれるし、もっと拡大解釈すれば現在世代のみならず、将来世代も含まれるだろう。そしてこの期間は一般に労働力として社会に出ている場合ある一定の影響力を持つことができる期間だろう。部下と言っても顔も知らない部下もいるだろうし、ましてや自分の発言1つで世間を騒がせる可能性だって否めない。できることもほぼ無限大だろう。影響力の拡大は自分がコントロールできる範囲の拡大と連動する。今までに想像もしていない誰かのために何かをしている可能性がある。そんなことができるのが41歳から60歳までの20年間だろう。

最後に61歳から80歳までの20年間。
この期間は再び社会から自分へ与えられる期間。年金制度が維持されているだろうから、そういった観点からも言えるし、家族にお世話をしてもらうことになるという意味でも自分が与えられる期間になるだろう。もちろん、この20年間は初めの20年間と異なり自分から社会に与えることもできる。というよりもそうありたい。

81歳以降はないのかと言われそうだが、たぶんあるだろう。しかし、そこから先はいつ終わりが来るかわからないし、体力的にも能力的にも制約が多くなる。だから敢えてその部分は空白としておこう。こういった感じで自分が考える社会貢献ができるのだろう。

というわけで、社会貢献自体には深い意味はないし、深い考えもない。
ただ柔軟に考えられるということと人間を法人として考えたときに参考になる考えであるということで採用しただけである。

この社会貢献という軸を考えたときに、修士課程修了後の進路をどうするか迷うのである。

今手に入れることができる進路は2つ。
就職か進学か。
就職の場合はすでに内定をもらっているところに行くだけであるため大して意思決定のコストはない。一方で、進学となるとこれから意思決定をする必要が出るためそのコストが発生する。
博士をとることが目的なのか、研究者として何かをすることが目的なのか、その部分がうにゃむにゃであるために迷いが生じている。僕がやろうとしている研究そのものは直接的に一般的な社会貢献にはつながらない。とくに第2フェーズにおける社会貢献度合いはほぼ皆無だろう。
就職と比べた場合、内定をいただいた会社は1500万円程度は到達する会社であるため果たしてそれを捨てても勉強したいのか、それに敵うだけの満足度を得られるのか、その部分を洗いざらい明らかにする必要がある。

きっと社会貢献という1つの目的が定まっているにもかかわらず、現状天秤にかけられるものが時間・お金・労力・知識しかないためにどうしても金銭的な比重が強くなっていしまうという欠点がある。

お気づきかもしれないが、ここで修士修了後の進路が就職ですと言えない時点で、博士課程に進んだ方が自分個人としては満足度も高くやりがいもあり、充実した日々を送れるのだろう。
ただ、社会は複雑であり、いくら飄々と生きている僕であっても世間体は気にするし、家族のことも気にするし、そうすると博士課程に進学することが必ずしも正しいとは言えない。

自分が何を与えられるか、自分が何を価値として提供することができるのか、そのことをよく考えて見つけ出し、現状の答えでも構わないから何か先に進めるための意思決定をする必要がある。

タイムリミットは残り3か月程度だろう。日本にいる間に自分と向き合い、価値とは何か、自分の思考方法が凝り固まりすぎていないか、偏っていないか、その部分から解きほぐす必要があるのだろう。
大変な作業だろうが、やらないと先に進めないし、ぜったいに後悔する。
どっちに進んだとしても後悔する。
取り戻せる時間があるのが若さの強みだというけれども、時間があるかなんてわからない。今の意思決定を最大で最高のものにすることがリスクを最小化することに繋がると信じている。

この一年間は自分と向き合う期間が長かった。
就活も大してしていないのに、一般的な就活生以上に自分という存在について考えてきた。その結果、何もわからないという哲学的な回答はしたくない。
結果が全てじゃないと言うけれども、それは負け組がいうこと。
勝ち続けられればすべてが結果の上に積み上がり続ける。
おつかれさま、自分。

31/12/2023

小田和正の「愛を止めないで」に確かこんな歌詞があったと思う。
「~
君の人生がふたつに分かれてる
そのひとつがまっすぐに僕の方へ
~」
まさしくこの状況なんだろうか。
”愛を止めない”か、難しいね。

#今年のふり返り

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?