生と死についておもうこと④
### **これまで何名もの友人たちの死に向かいあうことがあった。その中で何名かの死、あるいはその死の選び方は、わたしの生きる意味を考えるうえで影響を与えたと思う。**
### **先ず、私の高校の同級生の死だ。彼はわたしより先に大学を卒業した。**
### **そして、確か二年目にその頃の大蔵省の屋上から身を投げた。わたしや高校の同級生は彼の実家のある鹿児島で集まった時、ただ、なぜだろう⁈しか言えなかった。今なら、仕事場のハラスメント等について考え、調査が為されたかもしれない。しかし、その頃は、ただ「自殺」で終わった。多分、仕事場でのストレスが精神を狂わせ、この世界を生きていくよりは死んだ方が良い、と身を投げるという行動を取らせたのだと思う。わたし自身、それに近い精神状態まで追い込まれたことがあるので、そう想像する。**
### **彼の死で、わたしは国家公務員にはなるまいと決めた。**
### **あとひとりは、もの静かな同人誌の仲間である。彼は銀行員になり、二年目に、ずっと続けていた山登りの格好で家を出て、樹海に入って帰ってこなかった。彼の日頃の言動から、わたしは彼は「この世には生きていく喜びも価値もない」とはっきり自分で自覚して死を選んだと思った。**
### **そして、もうひとりの死は最近である。トライアスロンを目指すほど自転車、マラソン、水泳に情熱的だった男が、死を選んだ。精神的な病いのために、障害者としての保障を受けないと生活できなくなった、楽しみでもあった仕事ができなくなったためである。**
### **彼は、この世界には美しいものがあり、楽しいことがあると分かっていた。しかし、それを自分の力で楽しめないことに絶望したように思う。**
### **こうして、親しかった友人たちの死を思い返すと、わたし自身かれらのように死んでもおかしくなかったと自分の過去を思い出す。**
### **恐れ、希望の無さ、生きる意味の喪失、それらで死を思ったことがある。ただ、偶然、誰かがいて、その人と生きれるかもしれないと思ったり、その人と生きたいと思って、暗い淵を跨ぐことができたように思う。**
### **誰かがいても、真っ暗な闇をまたげない時、わたしたちは太宰治のように死を選ぶのではないかと思う。わたし自身、横にいる人に「一緒に死のうか?一緒に死んでくれないか?」と言ったことがある。**
### **わたしがそう言われたとしたら、その時、わたしは、「いいよ、一緒に死んでいいよ」と言うだろうか。しかし、そう言った後でないと、「一緒に生きよう」という言葉は意味をなさないように思えてならない。**
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