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めぐるとモモカ【①出会い】
目覚めると、そこはわたしが週一で通っているメンタルクリニックの待合室だった。
わたしは1人がけの木の椅子に座っている。
「めぐるさーん、診察券だけ出してもらってもいいですか?」
見知った顔の受付の女性が2人。名札がないので名前は知らない。やはりここはいつものクリニックのようだ。わたし、また居眠りしてしまったのか。
立ち上がって すいません、と言いながら受付に向かう。気付くといつものリュックを前にからっていた。少しファスナーが開いているところから手を突っ込み、診察券が入っている布巾着の触感を探る。
毎回のことなので、お姉さんたちは別のことをしながら待ってくれている。
結局手だけでわからず、がばっとリュックを開いて中を探す。見ればすぐわかる。いや、これ何回も触れただろ、と少しイラつきながら、診察券を抜き取りブルーのトレーに置いた。
「ここもね、書いてくださいね。」
座りに戻ろうとしたわたしにすかさず受付名簿の記入を促す。この人たちは、嫌な感じを受けない話し方がすごくうまい。いや、今日はなんだか調子がいいからそう思うのかもしれないが。
名前を書き出すと、わたしの前の人たちのことが急に気になった。職場の人が来てるのでは、といつもビクビクしながら見てしまうのだ。隠されてるわけでもないので見えてしまうのだが。
わたしのふたつ上のところに、見知った名前があった。
田所 モモカ
なんの知り合いかはわからない。でも知っているな、と思った。
「はい、じゃあ座ってお待ちくださいね。」
すぐに身を引いて、ぺこっと頭を下げて元の場所に座った。いつも通り、風が吹くとゆらゆら揺れる鳥のモジュールを見つめた。眠くなるようなオルゴールのBGMと裏腹に、コツコツ、と足音がし始めた。
「失礼します、」
声がして診察室のドアを見ると、真っ赤な唇の女の人が出てくるところだった。
髪は肩より短く、ショートボブくらいで、ツヤっとした黒髪。左耳にかけるようにしている。右目に泣きぼくろがあり、ビー玉のようにキラキラと瞳が輝いているようだ。
ネイビーの暖かそうなニットに、チェックのハーフパンツ。足元はブラックのロングブーツで、ヒールが悪魔的高さだ。
見惚れていると、女性は視線に気付いたのか、わたしの方を見てきた。わたしはすぐに視線を逸らした。
女性はケホッと小さく咳をして、わたしの座る木の椅子の背面にあるL字のグリーンのソファに座った。
ガチャっと診察室のドアが開く。
「小林さーん、どうぞ。」
先生が呼ぶと、診察室の1番近くに座っていた中年男性が診察室に入って行った。
わたしは思い出していた。2年ほど前にたまたま見かけた雑誌に、モモカという名前のモデルが載っていた。
パラパラとページをめくって、気に入ったので買った。その頃は秋物特集の時期で、プラタナス色のニットに身を包み、しゃがんで見上げているモモカは、とても可愛らしかった。可愛いだけじゃなく、カッコ良くもあった。その右目に、泣きぼくろがあったし、瞳もビー玉のようにきらきらとしていた。
え、モモカじゃん。なんでここにいる?話しかけてみたい。
一気に脳内が情報過多になり、冷静になる前に動き出していた。
「あの、すいません。」
「……あ、はい?」
女性は少し驚いた様子で、わたしの方を見上げた。
「わたしの好きなモデルさんにすごく似てらっしゃるもので……。失礼ですが、お仕事は何をされてますか?」
「……はい、モデルやってました。今はやってません。」
やっぱり本人。
「あの、またすごい失礼かと思うんですが、なんで辞めてしまわれたのでしょうか?」
「地元でゆっくりしたくなったんです。持病も悪化してしまって。」
「あ、そうだったんですね。教えてくださってありがとうございます。……え、地元?」
「あ、はい。生まれはちがうとこなんですが、モデルの仕事で上京するまではこの地域で育ちました。」
憧れのモデルの地元で一人暮らししてたなんて、結構すごいことじゃん。ていうかこんな美人がいたら大騒ぎになるんじゃないのかな?
「田所さん、お待たせしました〜。」
会計にモモカが呼ばれて、会釈してその場は終わった。気づくと小林という名前の男性も診察が終わり、私1人が診察待ちのようだ。
「めぐるさーん、どうぞ」
診察室は入って左側に大きな本棚があり、たくさんの専門書が入っている。今にも倒れてきそうだ、と毎回思う。
先生の机はドアに背を向けるようにあり、大きな窓が目の前にある。窓の向こうは緑がほどよく生い茂っていて、たまに花もある。
入って右側にベッドがあり、その側に背もたれ付きの椅子が2台置いてある。わたしはいつもどちらに座るか悩んでしまう。
奥に座れば先生に近すぎるような気がするし、手前に座れば遠すぎるような気がするからだ。結局今日は奥に座った。だいたい10回中8回は奥に座るのだが。
「いかがですか?」
椅子に座ると同時に、先生がお決まりの問いかけをしてくる。ん〜とですねぇ、と唸りながら続けた。
「朝、起き上がらなくて、仕事を休んでしまいました。夜も、朝が来るのがこわくて眠るのに時間がかかります。寝たと思っても、何回も夜中起きてしまうし、」
「そうですか。朝起きるのが難しいのが、あなたの症状でもありますからね。仕事をお休みしたり、時間を遅らせるのも良い対応ですよ。調節しながら生活しましょうね。」
「はい。」
「中途覚醒が増えてきてるようですね。鬱の症状のひとつですから、何事も、ペースは落とし気味でやっていきましょう。」
高校卒業後、就職を機に地元から離れて一人暮らしを始めた。持病で免許が取れないため、公共交通機関が活発なところに住まないと生活ができないのだ。
しかし社会人3年目になった頃、新卒としてのエネルギーが尽きはじめ、もともとのコミュニケーション能力の低さが目立ち始めた。
気づくと上司、同僚との関係が崩れていた。するとどんどんまわりの目がこわくなり、職場に行くことができなくなってしまった。
それから退職して、しばらくお休みし、転職して3ヶ月、ここに通院しだして、半年になる。
「では、次の予約はどうしますか?」
「2週間後の火曜日でお願いします。」
診察室を出ると、患者はわたし1人だけになっていた。外はもうすっかり暗い。
「お大事になさってください。」
「ありがとうございました。」
病院を出てアパートへの道を歩いていると、モモカがいた。ぺこっと頭を下げる。
「…あ、えと、急に声かけて話しかけてしまってすいませんでした。ほんとに、すいません。」
今になって自分がやったことが恥ずかしくなってきた。病院に来てるのに、なんだこいつ、と思われたに違いない。わたしの思考回路は、いつも反省する時はフルスピードだ。
「私こそ、待ち伏せみたいなことしてますよね。すいません。少しお話しできませんか。」
「えっ…」
私が驚きで固まっていると、モモカは手を引き、5分ほど歩いた。
その間わたしは、え、どこに行ってますか?、こっち方面あまり来たことなくて、とかずっと話していた。
「着きました!」
着いたところは、なんだか普通のアパートだった。三階建てで、小綺麗な感じだ。
「ここって…?」
「私のアパートです。モモカアパートメント。」
「あ、え、所有してるってことですか?すご…。」
「めぐるさんは、お仕事は何を?」
モモカは答えず、逆に質問してきた。
「え、本が好きなので、駅ビルの中の本屋で店員してます。…と言っても、体調が安定しなくてお休みしちゃうことが多くて…。」
ビー玉の瞳でじっとわたしを見つめるモモカ。街灯で照らされて、瞳が万華鏡みたいだ。すご。
「あの、私と一緒に、アパートの管理人やりませんか。」
「…え……え?」
「めぐるさんみたいな方を、探していたんです。わたしの、パートナーになってください。」
わたしは気づくとモモカに釘付けになっており、あんぐりと口を開けたまま、両手をモモカに力強く握られ、立ち尽くすしていた。
つづく