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くらげ野郎

風邪が快癒の方向へ進んできたので、仕事が終わって一旦家に帰ってから飲みに来た。今二杯目を飲んでいる。ビールからのハイボール。ブラック・ニッカ・ハイボールならハッピー・アワー価格で飲めるのに、角・ハイボールを飲んでいる。ブラック・ニッカは苦手だ。ウイスキーならブラック・ニッカしか飲まないフリークスの知り合いもいるが、その人は筋金入りの左翼で、プチブル気質の俺はそんな風になれそうもない。俺はロイヤル・ホストのI.W.ハーパー・ハイボールを飲むと特別な気分になる。
帰ると妻が夕ご飯を作っているところだった。開口一番「飲みにいくよ」と言うと、露骨に呆れた顔をして、「早く言ってよ」と言われた。即座に「ごめん」と言いそうになったが、普段からあまりにも謝ってばかりで、これ以上「ごめん」の価値を下落させることを躊躇い、「今決めたことなんだもん」と言ってぐっとのみこんだ。身勝手な印象を弱めるために、クネクネしなを作って言ってみたが、目が泳いでいた記憶がある。「帰ってからちゃんと食べるよ」と言ったが、1人分だけ作ることにしたとのことだった。
焼き鳥屋なので焼き鳥を頼むのが常だが、最近かつおのたたきに凝っているので、かつおのたたきとコロッケを注文した。かつおのたたきに凝り出したのは、数ヶ月前アド街ック天国かなんかの番組で勝浦が特集されていて、そこの漁師たちがひたすらかつおを食いながら飲んでいるのを見て「いいな」と思ったからだった。かつおで飲むと精神が滾る。
かつおとコロッケがなくなったので今は牛さがりステーキを食っている。グラムを聞かれたので一番少ない91グラムにした。あまりうまくないので少なくしておいてよかった。ビーフ・シチューとかにちょうど良さそうな筋っぽい肉だ。ビーフ・シチューが食いたくなってきたが、そういうメニューはない。この前爆笑問題のラジオを聞いていて、とろサーモンの久保田が太田の奥さんであるタイタンの社長と高級なところに飯を食いに行って、奥さんが「いつもの」と言ったら寿司屋にも関わらず小さなお椀に入ったビーフ・シチューが出てきたという話が脳裏によぎって俺はこういう話をしているのかもしれない。とにかく、とろサーモンはずば抜けて面白いが面白いが強すぎるからあまりテレビで売れないんだと思う。別にテレビが悪いとかではなく(もちろんテレビはクソだが)、人間なんてそんなもんだ。
隣に座った男が店員の若い女の子が髪を切ったことに気づいて、「色がいいね、素敵なお姉さんだね」と褒めている。女の子も「えー、やっと気づいてもらえました」と愛想よく言っている。その男はセミロングのブラウンぽい髪色をした中年だが、隣に座った瞬間、ふわっといい匂いがした。これはなんの匂いだろう。柑橘系の香水、とかそういうキャッチーな匂いにしておきたいところだけど、それよりは少し複雑な匂いだ。いい匂いではあるけれど、ちょっと古い家の和室みたいな、匂いというか臭さというか、そういう落ち着くというか辛気臭いというか、どこかで確かにかいだことがある匂いがする。古着屋の店員か?抹香の匂いか?わからない。でも俺もそういう風に、どんどん自分から他人に働きかけられる人間になりたい。こんなものを書いている場合ではないのだ。漠然としたいい雰囲気を能動的に、主体的に環境にもたらすことが、いい歳こいた人間の責務なのだから。
カウンターの、背もたれのない長椅子に長時間腰掛けているから、腰が痛くなってきた。ときどきタバコを吸い込むと同時に背筋を伸ばすように心がけているのだが、煙を吐き出すと同時に弛緩し、グニャ〜っと猫背になってしまう。一年前の今ごろは今の職場に入ったばかりで、ものすごく腰が痛かった。今は痛くない、というより痛みに慣れて普段はわからなくなった。猫背になっただけだ。入ってすぐ辞めようと思ってもう一年経ったのかと思うと、感慨深くはなく、単に恐ろしい。「辞めます」というその一言を言うのが面倒くさくて先延ばしにしていただけで、一年も経ってしまった。その程度でやり過ごせているだけ幸福なのかもしれないが、働きたくないという気持ちがなくなるわけでもない。しかし、辞めたってまた働かなくてはならないし、働きたくないのに働く先を探すあの欺瞞はもう耐え難い。とりあえずじっとしていることしかできないのだ、と思っているだけで、少なくとも一年は経つということだろうか。
例えば今日、何があっただろうか。ほとんど覚えていない。なんとなく貧乏性で、物欲しげな顔をして、「覚えておこう」と思っても、そう思うこと自体がひどく恥ずかしくなり、その状況から心を引き離してしまう。
それでも、今日はいいやり取りがあった。というのも自分に甘すぎるのは間違いないが、三杯目を飲んでいい感じになっているので、そう言ってもいいと思っている。というのも、ふみちゃんという婆さんが朝飯を食った後、いつものように「なんでここにいるんだよ」と言ってきたので、そこでは「旦那さんが入院中だからその間家に一人でいるとこんなご時世で心配なので三男さんがここにいるように決めたんだよ」と言うのが決まりなのだが、朝っぱらからそういう決まりきったことを言う気分にもなれなかったので、適当に濁していると、「認知症か?」と言ってきた。とりあえず「認知症じゃないよ」と言ったはいいがそれは嘘なので、二の句を継げずにいると、ふみちゃんはそれを待っている。苦し紛れに「ただの物忘れだよ」と言ってみると、ふみちゃんはしばらく黙ったあと、「同じことじゃねえか」と強めに言ってきた。それでふみちゃんと同じ席にいた三瓶さんが笑い出したので、ふみちゃんも釣られて笑い、その場が丸く収まった。そのやり取りを何回も繰り返して今日は終わった。俺が帰る間際、俺と交代した主任介護士の仁さんがふみちゃんから同じように「なんでここにいるんだよ」と聞かれて、「もう在宅での生活は難しいから」と真顔で答えていて笑ってしまったが、ふみちゃんはきょとんとしていた。「な〜にがなんだかさっぱりわからんてんてこ舞〜いの忙しさ〜」と口ずさみながら、ふみちゃんは自分の居室に帰っていった。
四杯目の酒と中華クラゲが来た。昔、叔母さんが作ってくれたクラゲの入った中華風サラダが大好きだった。こんなコリコリするだけで味のしないものがこの世にあるのかと蒙を啓かれた。人が好きなものに似てくるのか、似ているから好きなのかよくわからないが、クラゲには特別な思い入れがある。

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