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エリートパニックと人種差別 ― レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』(2)

レベッカ・ソルニット『定本・災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』
"A Paradise Built in Hell - The Extraordinary Communities That Arise in Disaster"
高月園子 訳、亜紀書房、2020年

前回のつづき。

本書は、災害時に出現する相互扶助のコミュニティの事例と、そうした他者への〝思いやり〟に基づくアナキズム的な社会への期待が語られるが、その裏返しとして、権力者に対する批判についても多く紙幅を割いている。

権力者は、ひとたび災害が起これば、被災者たちはパニックに陥り暴徒化すると信じている。こうした考えは、トマス・ホッブズ(1588~1679)の「万人の万人に対する闘争」(自然状態すなわち政府が存在しない状態では人々は争う)や、ギュスターヴ・ル・ボン(1841~1931)の『群集心理』(1895年)など、広く信じられているとソルニットは述べる(※1)。また、ハリウッドが制作するパニック/ディザスター映画が「人々が右往左往し、他人を押しのけてでも我先に逃げようとして、要するに完全に理性を失っている場面」(186頁)を繰り返し描くことで、市民の暴徒化という考えをさらに強化するとして問題視する。

しかし、実際にパニックに陥るのは権力者の方だとする学説がある。エリートパニック(※2)と呼ばれるものだ。ソルニットの見解では、エリートパニックは「すべての人間を自分自身と同じであると見る権力者たちのパニック」(200頁)であるという。つまり、権力者/エリートは、利己的な欲望によって権力の座に昇り詰めた。そして、市民もまた自分と同じように利己的であると考える。ゆえに、市民がパニックになれば、私利を優先する行動があちこちに発生して秩序が乱れる。やがて反乱や革命のように自分の権力が脅かされる、そう信じているというのだ。

また、災害社会学者のキャスリーン・ティアニーによれば、エリートパニックとは「社会的混乱に対する恐怖、貧乏人やマイノリティや移民に対する恐怖、火事場泥棒や窃盗に対する強迫観念、すぐに致死的手段に訴える性向、噂をもとに起こすアクション」(193頁)などだという。二つめに挙げられている「貧乏人やマイノリティや移民に対する恐怖」の移民、すなわち外国人に対する恐怖に基づくエリートパニックは、9.11後において顕著に見られた。それは、国家が主導的に行った人種差別であった。

 今回は、それまでの他の多くの災害と違い、ニューヨークの市民が敵として扱われることはなかった。今回、エリートパニックは別のところに現れた。政府は、民族、出生国、宗教などのカテゴリー上で少しでもテロリズムに似た人物を犯罪者扱いした。結果、中東出身の男たちは、法的権利の説明も罪状もないまま、拉致され、拷問され、刑務所に入れられたので、彼らの人権や法的権利は完全に消滅した。被害者の中には移民だけでなく、アメリカやカナダの市民や、九・一一直後にアフガニスタンやその他の国々で捕まった男たちや少年もいた。さらにブッシュ政権は過去に例のない動きに出て、この囚人たちをいかなる国内法や国際法の保護からも外し、拷問と不法行為とアメリカ史上初となる無制限の行政権行使という新時代の幕を開けたのだった。ちょうど関東大震災がそうだったように、時に市民は自らの手で人を裁くよう刺激される。ここでは、間もなくイスラムや中東と関係した人々に対する脅迫や攻撃が起こった。(…)

334頁 太字強調は筆者

関東大震災の発生後に起きた朝鮮半島出身者に対する虐殺への言及は、上記のほかに別の章で「災害後の最も非道きわまりない例」として触れられている。このあまりにも「残忍な出来事」は、「権力機関の結託による、もしくは直接彼らの手による、現状を維持しようとする行為だった」とソルニットは述べている(127-128頁)。手前勝手な〝現状を維持しようとする〟ための差別的な暴力は、「朝鮮人が暴動を起こしている」という流言によって始まった(先に述べたティアニーの「噂をもとに起こすアクション」に相当する)。同様のことが、2005年に発生したハリケーン・カトリーナでも起こった。

 パニックを起こしたエリートのように、人種差別主義者たちもまた、自分たちがいなければ、収拾のつかない野蛮な世の中になるだろうから、自分たちの行う殺人行為は秩序の維持と文明の保護のために必要なのだと、頭の中でくり返す。クー・クラックス・クランの行った殺戮や、かつて南部であった集団リンチは、しばしばアフリカ系アメリカ人の犯す犯罪についての作り話により引き起こされ、煽られていた。むろん、カトリーナの間にアフリカ系アメリカ人がまったく罪を犯さなかったわけではないが、黒人は誰でも犯罪者だと信じ、黒人全体や罪のない個人まで罰することは、常軌を逸した人種差別主義であり、尊大な自警行為である。恐怖と噂と暴風と、昔の作り話の洪水に掻き立てられたエネルギーはきわめて危険なものに転じた。そして、例によって災害は聞き慣れた言葉で理解され、実際に何が起きたかはほとんど注目されずに終わった。

385頁

関東大震災後に起きた朝鮮半島出身者に対する虐殺。9.11後の中東出身者に対する攻撃。ハリケーン・カトリーナ後におけるアフリカ系アメリカ人に対する暴力。これらはほぼ同じ構図と言ってよいだろう。情報が不確かな中で耳にする「××人が××している」という悪い噂は、差別主義者にこそ強力に作用する。なぜなら、前々から差別している自身にとって非常に都合の良い噂だからだ。冷静に考えればあからさまなデマであっても「××人ならやりかねない」などと判断する。

メディアにも大きな問題があった。CNNは「凶暴なギャングどもが警察のいないのをいいことに、やりたい放題に振る舞っている」と報道し、ニューヨークタイムズ紙は「略奪者がはびこり、完全な無法地帯に陥った」という記事を掲載した(351-352頁)。差別主義者にとって、自分たちが行使する暴力を正当化する理由になった。


最後に、本書の総論とも言えるプロローグとエピローグの項から、それぞれ一節を引用する。

 災害時には、隣人や自分と同じ市町村の市民を、災害自体より危険な存在だと見なすかどうか、さらに、彼らを付近の店や家にある品物より価値のある存在だと考えるかどうかにより、人々の行動は大きく違ってくる(…)。ハリケーン・カトリーナはまさにその極端な例だった。何を信じるかが、行動を決定する。普段の生活においても、一人の人間の行動が、その人自身や他の人々の生死を決定する場合があるが、緊急時にはもっとそうなのだ。

9頁 太字強調は筆者

 災害はわたしたちに別の社会を垣間見せてくれるかもしれない。だが、問題は災害の前や過ぎ去ったあとに、それを利用できるかどうか、そういった欲求と可能性を平常時に認識し、実現できるかどうかだ。(…)

459頁

所感

まず、あまりにも自明なことを確認しておきたい。本書が述べるように、災害をはじめとした非常時が、被災者に〝やるべきこと〟を与え、結果的に〝生きる意味〟や〝生きる目的〟という欲求を満す(前回の投稿を参照されたい)としても、大前提として、被災者は辛く苦しい状況下に置かれている。確かに、たとえ厳しい環境下にあっても〝やるべきこと〟をこなすことは、ある種の生の充足感をもたらすのかもしれない。しかし、明日がどうなるかわからない状態で生き延びるために行う〝必死〟な活動と、未来の不安がない状態で事に打ち込む〝夢中〟とでは、質が全く異なる。ゆえに、体力や精神にゆとりがあるボランティアの援助が欠かせない。こうした基本的な想像力がなければ、被災地での相互扶助の姿を、単なる美談としてのみ都合よく消費するだけである。

相互扶助のコミュニティについては、先に引用した通り「災害の前や過ぎ去ったあとに、それを利用できるかどうか」が課題である。他者への思いやりを、非常時だけでなく「日々の領域に引き込むよう努力」(468頁)することが重要であるとソルニットは説く。それは、言い換えれば「平常時から互いに助け合い、かつそれを持続させること」が求められることを意味する。

〝助ける〟とは、困っている人に手を貸すという意味であるが、自力では問題や課題を解決できない弱者への介助というイメージが強いかもしれない。何でも自己責任だと考えて、「私は一人で問題を解決できるから助けはいらない」という人ばかりでは、日常的な助け合いは生まれない。したがって、〝助ける〟という言葉の意味をもっと広く捉え直す必要があるだろう。

例えば、私たちが暮らす資本主義社会は、自分ができないこと(やりたくなこと)を他者が代わりに行う「分業」と、その対価を貨幣で支払う「交換」で成り立っていると考えてみよう。この「分業」という側面を、互いに役割を分担して補い合っているというと捉えれば、それは〝助け合い〟と言えるかもしれない。ただ、対価を支払うという「交換」の側面が、〝助けられている〟という負債のような感情を帳消しにしている。

あるいは、「農家が作った野菜を近所の漁師に売り、その漁師が釣った魚を近所の農家に売る」というような、互いに顔が見える関係性であれば、たとえ貨幣が介在しても、互いに補っていることを、つまり〝助け合い〟を実感しやすいかもしれない。しかし、現代の経済活動はそのような単純なものではない。誰が作っているのか(生産)、誰が運んでくれているのか(流通)、誰が維持してくれているのか(インフラ等)があまりにも見えにくい社会になっている。以上のような相互扶助に関する問題については、機会を改めてもう少し掘り下げてみたい。

エリートパニックに関する指摘は、頷くところが多かった。すでに多くの人が忘れているかもしれないが、たった5年前(2020年)に起きた新型コロナウイルスの世界的パンデミックにおける、日本政府や各自治体の対応を思い出してみよう。その対応を検証するうえで、本書は参考の一つになるだろう。

一方で、コロナ禍においても相互扶助はあったと思われるが、むしろ市民が相互監視的になってしまった側面や、感染者や医療従事者に対する差別が起きたことの方が、強く印象に残っている。外出自粛要請(海外ではロックダウン)や感染者の隔離など、対面のやりとりや身体の触れ合いを遠ざけてしまうと、穢れの観念とも関連して、相互扶助が生まれにくくなるのかもしれない。もちろん、あらゆる災害時に相互扶助のコミュニティが生まれるわけではないことや(前回の投稿の脚注※3を参照されたい)、天然痘の流行に関する言及も本書には書かれているが(194-195頁など)、その記述は多いとは言えない。感染症に関しては、もう少し細かな分析が求められるだろう。


※1…中井久夫『災害がほんとうに襲った時』(みすず書房、2011年)では、エアリス・カネッティ『群集と権力』(1960年)が取り上げられている。カネッティによれば「人間集団はある臨界点を越えると突然「液状化」して「群集」と化し、個人ではまったく考えられないような掠奪、暴行、放火などを行う」(92頁)というが、阪神淡路大震災では「液状化」は起こらかなかったと述べている(93頁)。

※2…本書によれば、「エリートパニック」という用語は、ラトガース大学の研究者カロン・チェスとリー・クラークによって作られた言葉である。また、災害社会学者キャスリーン・ティアニーは「エリートパニック」という表現を用いて持論を展開した(194頁)。


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