ドクとヨク #2
耳を澄ますと、かすかに雨音がした。カーテンの隙間から外を覗いてみると、薄暗く湿った空気が漂っていたように見えて、今日は部屋で頭の中に閉じこもってしまおうと決めた。
先日のウピの件から、いくつかわかったことがある。「奴」は人間の認識に干渉していた。あの時の客や店員の反応からしても恐らく間違いない。それ故に、物理的に影響を及ぼしているわけではないとも考えられる。というより、そう考えるべきだ。一度物理的に消滅した物がほんの数十分で再びその場に0から創造されるという現象であったとすると、そもそもこの世の物質というものの概念が崩れてしまう。もしそうなら、考えるだけ無駄だ。神の気まぐれの前では人の常識や文明など塵同然であったのだと諦めるしかない。店に入った時はあそこに無かった牛乳は、突如として現れたのではなく、初めからそこにあったのを僕たちが認識できるようになっただけのこと。牛乳という物をないものとして扱っていた店員がレジでは通常通りに対応してくれたのも、理由のない嫌がらせでさえなければ、認識の修正による変化であるはずだ。
そして、ヨクの言葉が正しいとすれば、その起点になっているのが「名前」だ。名前というのは、要は普通名詞のことで、言葉そのものと言ってもいい。言葉とはすなわち、記号や音声に意味を付与したものである。だが、人間は神ではないため、付与したとは言ってもそれは人間による人間の為の一方的なルールに過ぎず、人間から失われればこの世から失われたも同然なのだ。
だからこそ、僕たちは牛乳という存在が自分の中から完全に消えてしまう前に、代替となる言葉を作って自分たちの意識に刷り込んだ。しかし、腑に落ちない点もある。僕とヨクが認識を取り戻したことで周囲の人間までも以前の状態に戻ったのはなぜか、ということだ。言語を操る人類のうち、「奴」に言葉を奪われた誰かが一人でも取り戻せば、全員が取り返したことになるのだろうか。それとも、僕たちが取り戻すことに何か意味があったのだろうか。思い返してみれば、僕たち以外にあの現象自体に気が付いて違和感を抱いているような人は見かけなかった。少なくともあのスーパーにはもう牛乳の存在を気にかけている人はいなかったが、あるいは、どこかにはいたのだろうか。
ふと、窓を叩く雨音が激しくなっていることに気が付いた。外を見ると、それはまさにバケツをひっくり返したような豪雨だった。
すぐに部屋を飛び出すと、ほぼ同時に向かいの部屋からヨクも飛び出してきた。
「ドク、雨すっごい降ってるよ!」
「水溢れるかもな。自転車避難させよう」
二人で階段を下りて行き、玄関に掛けてある雨合羽を持ってきて、庭に出たところですっかり雨が上がっていることに気が付いた。
「は?」
思わず空を見上げると、まだどんよりと分厚い雲が頭上を覆っていて、昼過ぎだというのに辺りは薄暗かった。
「ヨク、これはもしかして……」
はっ、とヨクは何か感づいたような顔をした。
「止んだね……!」
「そうじゃねえだろ」
とぼけたような間抜け顔になったヨクに説明が必要なのかわからなかったが、一応僕の推論を話した。
「まだこの辺り一帯にこれだけでかい雲がかかってるってことは、多分止んだわけじゃない。『雨』か、もしくは『水』が食われたのかもしれない」
雲が無くなっていないのは、恐らくあの時見たチーズやヨーグルトと同じだ。その中に失われたはずの物が含まれていたとしても、その名前、そのものでなければ無くならない。つまり、乳製品の中に牛乳が含まれていても「牛乳」そのものとして認識されていなければ無くならないように、雲の中に雨粒が含まれていたとしても、雲を「雨」や「水滴」そのものとして人間が認識していないのなら雲の方はそのままなのだろう。
そんなことを考えていると、突然ヨクが声を上げた。
「あ!自転車!」
反射的に塀の外を見ると、停めているはずの僕とヨクの自転車がひとりでにガタンと動いた。ひとまず庭に引き上げようと慌てて自転車を掴むと、車輪が水に浸かっているかのように少し重たかった。
「水だ!ここまで水が来てる!」
僕は少しも濡れていない。道路も同じく、さっきまでの雨が嘘のように乾いているが、どうやら今も大雨は降り続いていて、この足元は冠水しているらしい。
小さいヨクの自転車を先に持って、庭の中に避難させた。
「その辺に停めておいて」
道路に比べて塀の中の庭は膝くらいの高さにあるから、経験上は流される心配がない。この辺りは冠水しやすい地域だが、それが見えもせず、自分の足は浸かっていないのに自転車だけが水の重みを感じることなんて今までにない。掴んでいる物だけがそこに無い水の力に影響を受けている感覚というのは実に奇妙だった。
自転車を二つとも庭に上げて一息ついてから、僕は庭の隅にある水道に目を付けた。
「ヨク、これはもう明らかにただの気象現象じゃないよな」
「はい」
「俺の予想では『雨』か『水』のどちらかだと思うが、雨ではない水が出れば『雨』、出なければ『水』の可能性が高い。そう考えていいと思うか?」
「うん」
「軽いな。よし、いくぞ」
僕が蛇口をひねると、勢いよく水が流れた。
「水が出たから、『 』だ!」
「ん?」
ヨクの言葉がまた切り取られていた。
「あれ?」
「もしかして、 って言えないの……」
ヨクだけではない。僕の言葉も発音されなかった。
「時間がないかもしれない!急げヨク!」
何の名前を失ったのか、まだ完全には忘れていないはずだ。
「うーんと、うーんと……『テイ』!!」
「『テイ』……『雨』は『テイ』……あっ」
その言葉を口にしていたことに気が付いた瞬間、ほんの1、2秒の間だけ滝のようなテイが降った。しかし、それはすぐに弱まって、やがて上がった。
「……」
もう数秒早く晴れてくれていれば濡れずに済んだんじゃないのか。こちらがテイを元に戻すのが遅ければ二度とテイ水の恵みにはありつけない世界になっていたかもしれないというのに。
そんな恨みを天に向ける僕をよそに、ヨクはどこか楽しそうだった。
「なんかヨクが降らせたみたいだったね!テイッ!テイッ!」
呑気なものだ。テイほど人間にとって良くも悪くも重要な気象現象が、一時的にとはいえ認知不能になったことがどれほどの事か。さすがにウピの時とは違って、どこかで何かしらの混乱が起きているはずだ。僕たちだけでなく、人類総出で事に当たる時もそう遠くはないだろう。
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