鬼は傘の内

 その写真の中でも、雪が降っていた。
 両親の突然の死からちょうど十年。あの日から、身元不明の遺体が発見されたというニュースをいつも気にしていた。そして今日、講義の合間の休み時間にネットで見つけた記事には、僕が当時住んでいた市内にある橋の写真が載っていた。

 あの日も、雪が降っていた。
 週末は大抵いつもひとりで留守番していて、あの日も一人で家にいたら、昼頃に男が訪ねてきた。何度かインターホンの音を無視して、僕は部屋に籠って全てを遮断していた。何も知らない、何も聞いていない、誰とも会わない。それが一番楽に済むから。だが、その男は馴染みの家に遊びに来た友人のように家の裏に回り、窓から部屋の中を覗き込んできた。
 そのことに気付いていなかった僕は、まるで見られているつもりなどなく、いつものように、好きでもない教科書をぼんやり眺めていた。
 突然、窓からどんどんと鈍い音がして、思わず持っていた本を放り投げて、僕は立ち上がったまま動けなくなった。男はこちらをじっと見つめてから、部屋の奥を指さして「出ろ」と指示をして、再び表に戻った。戸惑う僕の足元には、『自分を考える』という道徳の教科書が落ちていた。

 恐る恐る玄関を開けると、上下黒のジャージにダウンジャケットを羽織った、子どもが見上げればまさしく壁のような大男がビニール傘を差して立っていた。
「お前、金子シュウだな」
 男は目を合わせるまでもなく僕の名前を呼んだ。事態を飲み込めずに固まっていると、今度はしゃがんで目を合わせてこう言った。
「お前の両親は死んだ。もう二度とここには帰って来ない」
 僕の顔を見つめながら、男は表情を変えずに小さく鼻で笑った。
「支度しろ。出かけるぞ」
 立ち尽くす僕は肩をポンと叩いて促されて、震えつつも言う通りに家の中へ戻った。

 僕はひどく混乱した。ただ留守番をしていたら、知らない男の人がやってきて、両親が死んだと言い、どこかへ自分を連れ出そうとしている。そんな事態に遭遇したことがなかったので、この男に従ったり逆らったりしたらどうなってしまうのかわからないのが怖くて、そして、少しわくわくしていた。
 僕がいつも学校に行く時の恰好で外に出ると、男は言った。
「なんだよ、もっと温かいの無いのか。雪降ってんのに」
 その言葉を聞いて、この人は良い人だと思った。
「自分のコートとか、長ズボン無いのか。だったらオヤジのでもいいからなんか持って来い。怒られたりしねえから」
 着るものといえば、寝間着以外は大きめのジャージの上下以外はなかった。上は長袖だからなんとか耐えられていたが、冬は毎日震えながら学校に行くのが当たり前になっていたから、他の物を着ていくという発想自体が無く、しばらく考えてから家の中に戻った。
 もし、あの男の言うことが事実でなかったら……そんな考えを振り払って父の部屋に無断で入り、空き巣みたいにクローゼットを漁った。ぶかぶかのジーンズと黒いコートを見つけて、引きずるのも気にせずそれに着替えた。
 玄関のドアを開けると、男はまたしゃがんで傘を肩にかけた。そして、僕の運動靴を隠していた長すぎる裾を折って捲って、剥がれた靴底の先端を指で少しめくった。
「……靴も買わねえとな」
「……」
「服、買いに行くぞ。服と靴」
 行くぞと言われても、知らない人について行ってはいけない。学校で教わることだ。
「あの……誰ですか?」
「あ、そうか。自己紹介ね」
 男は立ち上がって傘を持ち直し、こう言った。
「俺は殺し屋だ。名前は無い。詳しい話はこれからするから、とりあえずついて来い」

 自己紹介をしてもらったので傘を差してついて行くと、男は石突きを掴んでひょいと取り上げた。
「これも穴開いてるじゃねえか。骨も突き出てるしよ……今はこれ差しとけ」
 そう言われて渡された傘は僕にはまだ大きくて、身に着けている物もどれも大きすぎる上に、足元には土混じりの雪が薄く積もっていて歩きにくかった。男の方を見ると、僕の傘を閉じて手早くまとめてフードを被っていたから、やっぱり少し重たい傘は返そうと思って差し出したら、「いいよ」とだけ言って止められた。
「これは俺が貰ってやるよ。ゴミを再利用するのは得意なんだ」
 穴の開いた僕の傘を見せて彼は言った。
「子供の頃から、その辺の物をなんでも拾って使ってた。それこそ傘とか靴とか服なんかは大体な。誰が使ってたのかもわからないようなゴミを拾って、壊れてたら無理やり縫い合わせたりして、使えるようにして……」
「なんで……」
「名前が無いって言ったろ。俺は捨てられたんだ。親がどんな奴らで、どんな理由で捨てたのかも知らない。そのせいで、変な意味で逞しくなった」
 その話を聞いて僕はどこか安心したような、恥ずかしくなったような、不思議な感覚に襲われた。楽しいわけでもないのに、ずっと探していたものを見つけた達成感のような、奇妙な感覚もあった。
「駅前に着いたらバスに乗るぞ。何て言ったかな、でかいショッピングモールだかなんかあるだろ、そこに行く。今日の夕方か夜には家に警察が来るだろうから、それくらいには帰らないとな。お前の親についてはその時に教えてもらえるだろ」

 雪の中、二人だけでバスを待っていた。辺りは人も車も通りが少なく、屋根の上から時々雪がパラパラと滑り落ちて来るのを見ながらじっとバスを待っていたが、男が思い出したように僕の方を見た。
「そうだお前、明日には多分じいさんばあさんの家に引き取られるだろうから、自分で荷造りするんだぞ。何か足りない物とかあるか。服と靴以外に……ほら、パンツとか靴下とか」
「……わかんない」
「じゃあ、パンツと靴下も適当にいくつか買っていくか。覚えとけよ。忘れちゃうから」
 そこへ、バスと並走するようにはしゃぎながら駆けてくる男の子の姿があった。僕と同じ年頃のその子は後ろに「早くー!」と声をかけながら、静かに待っていた僕たちを追い越して、バスの乗車口が開くなり飛び乗って行った。後から息を切らして追いかけて来た母親が、鬼の形相でバスの中の男の子に向かって声を上げた。
「コラ!先に待ってる人いるでしょ!」
 母親は僕たちに頭を下げたが、殺し屋は優しく微笑みながら言った。
「いえいえ、お先にどうぞ」
 その顔を見て一瞬ぎょっとしながらも、男の後ろに続いてバスに乗り込んだ。二人で一番後ろの席で発車を待っていると、離れた前方の広いシートで立ったり座ったりして忙しない男の子と母親の元に、小さな女の子と父親が手を繋いでやって来た。それを見ていると、僕にだけ聞こえるように、男は小声で聞いた。
「羨ましいか?」
「うーん……わかんない」
 僕も釣られて小声で答えた。
「そっか」
「おじさんは?」
「うーん……俺も、複雑だな。人の命に責任を持つのは向いてない」
 プシューッと音が鳴り、乗車口が閉まるとようやく男の子も少し落ち着いて席に座るようになった。その様子をまじまじと見ていると、外の雪景色を見ている"おじさん"から静かに注意された。
「あんまり見つめるな。人は視線に敏感だから、見すぎると気付かれる。気付かれて目が合うと、知らない人間でも強く印象に残る。あんまり目立ちたくないから見るな」
 僕はしばらく白いばかりの窓の外を眺めるようにしたが、橋を渡った辺りでついに飽きて、バスの揺れに心地よくなり眠ってしまった。

「着いたぞ」
 僕は半分寝ぼけたままおじさんのあとについて行き、彼が運転手に軽く頭を下げたのを見て、同じようにそうしてバスを降りた。
 ショッピングモールの入り口や施設内は所々に鬼と豆のイラストが飾られていた。
「まずは映画でも観るか」
「映画?」
「お前、まさか、映画観たことない?」
「うん」
「そうか、じゃあなるべく見やすそうなアニメがいいか」
 映画館に入ると、最近は発券機でチケットが買えて便利になったとか、ポップコーンは散らかって好きじゃないから買わないとか、飲み物は買うけど値段の割に量が少ないとか言いながら、僕に映画館について説明しながら歩き回った。上映前にはトイレに行き、真ん中の席を取ったからと早めに着席した。本当は他の方がよかったが、泥棒が主人公の古いアニメのリバイバル上映をやっていて、おじさんがどうしてもと言うのでそれになった。でも、結局、始まれば画面に夢中になった。一度だけ、自分と同じようにそのアニメに夢中になるおじさんの顔を横目に見て、あっという間に時間が過ぎた。
 上映後、炭酸の抜けたコーラの残りを飲みながら、他の客が出て行くのを座って見ていた。
「実際の泥棒はもっと汚いし、愉快でもないし、逃げるのに必死で、女も子供も騙すし利用するけどな」
 座ったままズルズルとおじさんのボサボサ髪の頭が下がっていき、尻が座席からずり落ちそうになったところで止まってまた話し始めた。
「捨てられた俺がどうやって生きられたかというとな、拾って生かしてくれた奴がいたんだ。でも、そいつは泥棒だった。子供は怪しまれにくいとかそんな理由で、面倒見てやるから手伝えって言われて、一緒に盗んだり騙したり逃げたり……最初はお前より小さかったから見てるだけだったけど、だんだんやることが増えていった。そして、標的として人のことを観察して、捕まればどうなるか、社会のことを知っていくうちにだんだんと気づくんだ。それが普通じゃないってことに」
「その人は、今は一緒じゃないの?」
「ああ」
「どこにいるの?」
「お前の父ちゃんや母ちゃんと同じ所かもな」
 おじさんは席を立ち、それ以降泥棒について詳しく話はしなかった。

 そのあとは衣料品店に行き、僕は希望を聞かれたが、服を選んだことが無かったので、どうしても「わかんない」に行きついてしまい、おじさんは子どもサイズの服を見つけては何枚か取って試着室に持って行った。
「あんまり派手じゃない方が良いよな」
 そう聞かれて僕が頷いたので、黒やグレーの物ばかりが集まった。
 ようやくぶかぶかの服を脱いでいると、カーテンの隙間から髭面が覗いて来て、「一人で着れるか?」と聞いてきた。
「うん」と返事をしても、まだ何となく視線を感じた。
「なに?」
「……いや、何でもない」
 それだけ言っておじさんはカーテンを閉めた。僕はその時あまり気にしていなかったが、おそらく彼は、僕の体にいくつかあった大きな痣を見ていたのだと思う。

「よし、飯食って帰るぞ。別々にな」
 僕は自分のサイズにぴったり合ったダウンジャケットの裾をぎゅっと掴んだ。
「シュウ、お前寿司食ったことあるか?」
「ない」
「最後は回転寿司だな」
 おじさんが両手に持っていた買い物袋を片方持たせてもらい、歩き出すと、まだ大きめのスニーカーが少し硬くて、少し重たく感じた。

 おじさんは次々に流れてくるネタの中からサーモンばかりをひたすらかき集めていた。
「魚に飽きたらプリンとかケーキとかもあるらしいぞ、ほら」
 ちょうど流れて来たカスタードプリンを取ってもらい、僕は静かに目を輝かせた。おじさんのサーモン皿の端々には僕のネタから取ったワサビの跡がついていて、彼の目も若干潤んでいるようだった。
 彼は自分の皿を全て綺麗にして積み上げ、デザートのプリンを大事にゆっくり食べる僕を見ていた。
「プリン好きか?」
「うん」
「ワサビは、あんま好きじゃない?」
「……うん」
「そうか。じいさんとばあさんの家に行ったら、もっと色んなもん食わせてもらって、何が好きか、嫌いか、自分のことをもっといっぱい知るといい」
「おじさんは、なんでじいちゃんとばあちゃんのこととか、僕のこととか知ってるの?」
「この世界のどこかに情報屋ってのがあってな、どこの家が何人家族だとか、年はいくつだとか、収入はいくらだとか、あるいは、お前の親が週末どこに行ったとか、泊まったとか、何を買って、何を食ったとか、そういうことが金を払うとわかるんだ」
「どこにあるの?」
「教えないよ。お前はこっち側に来るべきじゃない……もし、お前が人間を心底憎んでしまえる人間だったとしても、こっちには来るべきじゃない。俺の事は反面教師として見ろ。言ってる意味わかるか?」
「わかんない」
「俺の様にはなるなって意味だよ。お前、両親が死んだって聞いた時、一瞬笑っただろ。自覚無いか」
 僕は首を傾げた。
「……わかんない」
「気を付けろ。お前はもう少し自分を知った方が良い。今はまだ無理でも、これから少しずつでもな」
 その時はただ、まだその笑みの意味を頭でよく理解できていなかっただけで、おそらく僕には、漠然とした喜びとその自覚があった。

 外に出ると、まだ雪が降っていた。
 ショッピングモール前のバス停で、おじさんは新品のスニーカーと僕の古い靴を入れ替えた箱を脇に抱えて、他の買い物袋を僕に渡したあと、五千円札を一枚だけ財布から出して、僕に握らせた。
「大金だと誰かにバレた時面倒だからな、少ないけど帰りのバス代と、残りは自分の小遣いにしろ。何か好きなもん自分で選んで買ってみろ」
 思い当たるものが無くて、僕はしばらく考え込んだ。
「そうだな……今日は楽しかったか?」
「うん」
「そうか。じゃあ、今日やったことを思い出してみろ。これから何かやる時も、自分の気分が良いと感じるか、悪いと感じるか、それを気にしてみろ。自分を知るのはまずそこからだ」
 最後にこう付け加えて、おじさんは去って行った。
「俺は、しばらくはやりたい事をやってみる。気が済んだら、適当にその辺で死ぬわ。じゃあな」
 雪の中に消えていくおじさんが、小さすぎるボロ傘を開いているのがぼんやりと見えた気がした。


 あのあと、家に帰ると警察とじいちゃんとばあちゃんがいて、事故があったと説明をされた。あの日のことは日記として自由帳に書いた程度で、全て鮮明に記憶しているわけではないが、思えばあの時、警察が事件の捜査をしているらしい様子はなかったし、あの人は僕の両親が「死んだ」と知らせには来たけれど、「殺した」とは言わなかった。結局、僕はあの人が何者だったのかを知らないままだ。それでも最後の言葉はずっと覚えていて、だから僕は、身元不明の遺体が発見されたというニュースをいつも気にしていた。
 そして、今日見つけた記事によると、僕が十年前まで住んでいた市内で中年男性の遺体が発見された。雪の降る早朝に、橋の下で小さな子ども用の傘を差した状態で座っているようだったが、発見者の呼びかけに応答は無く、通報後現場に駆け付けた救急隊員によると男性はすでに死亡していたという。
 男性が着ていた服のポケットからは遺書のようなメモが見つかっていて、そこにはこう書かれていた。
「シュウ、そろそろ逝く。お前の傘、直ったよ」

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