心中に残して

止まったままの命が唯々ここにあり、壊れた俺たちの約束が、俺の中にだけ残っていた。

 小学生の頃、隣の家の子供と母親が父親から虐待を受けていた。時々、その家から大きな物音がしたのを覚えている。ある時、尋常ではない叫び声を聞いて、俺の両親が通報した。隣の家の男は警察に連れて行かれ、その後、裁判を経て母娘はその男から解放された。
 あの日、俺と両親の三人家族に礼を言って頭を下げた二人の家族の、その痣だらけの姿を見て、俺と同じ歳の娘の、目の上にできた大きなたんこぶを見て、自分が如何に幸福であるかを知った。
 そして、その頃からひどく無気力になる時がしばしばあった。学校へ行って、小遣いを持って友達と遊んだり、宿題に文句を言ったりしながら、毎日思うまま過ごしていられることがどれだけ幸せに満ちた時間なのか理解した時、これ以上何も求めるべきではないという思いに駆られた。そうして、良識ある両親の下、幸福な家庭の中で、俺の人生は始まる前に一度終わった。

 
 朝、部屋の窓から小さく富士山が見えた。手前に聳えるビルやマンションも、ずっと遠くにあるあの山と比べれば実際はもっと低くて小さい。
 晴天の日にだけ望める景色をぼんやり眺めていると、美月が俺を起こしに来た。
「あ、起きてる。私、今日早く行くからね。また誰かに見られたら面倒くさいし」
 そう言いつつ、美月もまだ寝間着のままだった。
「なんだ、言えば俺が早く起きたのに」
「だって、そしたら寝ないでずっと起きてたりするじゃん」
「ちゃんと寝るって」
 時計を見ると、ちょうど五時になるところだった。ベッドの上で目を瞑ってから二時間程度しか経っていなかったが、眠気はなかった。睡眠の深さは関係なく、何時間だろうと、全く睡眠を取らなかったとしても常に眠気はない。ただ、毎日眠らずに夜をゆっくり過ごすことが億劫で、美月にも怒られるから努めて眠るようにはしていた。
 いつもは俺が先に起きて一人でする朝食の準備を手伝いながらも、美月の語調は少し強かった。
「じゃあ明日からはお父さんが先に出てね。親だって言っても全然信じてもらえないんだから」
「わかったよ」
 昨日の朝、俺と一緒に駅にいるのを友達に見られたせいで、俺が誰でどういう関係なのかとしつこく聞かれたのだという。元々、美月は俺の雑な暮らしぶりには否定的だったが、今度のことでより母親じみてきてしまった。
「もうちょっと人らしくしなよ」
 娘にそう言われて、まるで親に叱られる子どもの気分だった。
「わかったから、飯食って支度しろよ」
 美月が昨日の残りのカレーを食べている間、弁当を作りながら鍋の中身を見て少し考えた。
 美月が食べきれなくて残ってしまってもこれは無駄になるが、俺が食べればその時点で無駄になることが決定する。俺には何も吸収されず、ただ排泄物となって体を通り抜けていく。そう思うと勿体なくて、カレーの残りをタッパーに移して、台所に出してあった器は食器棚に戻した。
「中秋の名月とは、旧暦の八月十五日……」
 背後の食卓から聞こえてくるのはテレビのアナウンサーの声ばかりで、美月は何も言わなかった。

「行ってきまーす」
 部屋に戻って自分の支度をしていると、玄関から声が聞こえた。鏡を見て髪を整えている美月を呼び止めて「お小遣い」と言って五千円札を渡すと、美月は少し戸惑いつつ受け取った。
「ケーキ、好きなの買ってきな」
「あ、そっか。今日お母さんの命日か」
「お前の誕生日だよ」
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 中学生になったか、なる前だったか、「お母さんってどうして死んだの」と単刀直入に聞かれたことがある。俺が「病気で」とだけ教えると、美月は「ふうん」とだけ言って詳しくは聞かなかった。決して嘘ではないが、美月が聞きたかったことに対してはっきりと答えなかったという自覚はあった。それでもあの子はきっと、自分が生まれた時何が起こったかをおおよそ理解していたのだと思う。美月はその頃から、この日を「お母さんの命日」としか呼ばなくなった。
 美月を見送ってドアを閉めると同時に深くため息をついた。玄関の鏡には随分見慣れた顔が映っていた。また同じだ。いつ見ても、髭も皺もなく、16年前から少しも変わらない青年の顔だ。

 家から最寄りの始発駅は朝の通勤時間帯でもいくつか席が空いている。大抵の人は眠そうに俯いて座っていて、乗り込んでくる人がその間に収まる。疲れることのない俺はいつも通りシートを背にしてドアの前に立つ。電車が進むにつれて混んできても、眠たくも座りたくもならないこの身体は何かと都合が良い。
 特に美月が生まれたばかりの頃は、慣れない子どもの世話に時間を取られても、食事も排泄も、変化の起きない身体は風呂に入る必要も特にないから、一日のほぼ全てを美月の為に使えて、食費や水道代も赤ん坊一人分で済んだ。
 そして、この身体は怪我をすることもない。身体に損傷を受ける力がかかった場合、その物質はすり抜けるようにして、起こるべき現象が起きない。
 例えば、俺の目の前にいる女性が俺の足を踏みつけていても、その凶器のようなピンヒールは足の甲を貫通しているようで、何の痛みもないどころか踏まれている感触すらない。恐らく彼女も同様に足を踏んでいる感覚はないのだろう。全く気付く様子がないまま降りて行った。
 自分が傷つかないというだけでなく、誰かが自分を傷つけて罪悪感に苛まれることもない。そう考えれば、これから先いつまでこの状態が続くのか分からなくとも、このままでいるのも悪くないと思っていた。何せ、こんな身体でも幽霊か何かになったわけではなく実在している。他人からも見えているし、物に触ることもでき、毎日ごく普通に人の波に押されながら電車を降りて生活できている。大して好きでもなかった学校に毎日通い、毎日授業をする。娘と同じ歳の子供達に、今日は竹取物語の授業をする。

 この時期、校内はどこも文化祭の準備で、看板やら小道具やら普段ない物が置いてあり、毎年生徒のことよりも自分がぼろを出さないように気を付けなくてはならない。一方、生徒は生徒でいつもに増して授業に集中できない時期でもある。だから、古文を通しで読んでいるだけで八割方の生徒が机に伏している。だが、俺は不真面目な教員なので、わざわざ皆を起こしてメモを取るように注意はせず、言わなくてもやる一部の真面目な奴らだけを相手に、出来るだけ楽に授業を進める。
「最後の『ふじの山』の方にある和歌にも線引いておいて」
 僅か数人の生き残りはさっとペンを持つ。
「『逢ふことも涙に浮かぶわが身には死なぬ薬も何にかはせむ』。後々またやるけど、この『何にかはせむ』の『かは』の所ね。意味としては、『死なない薬が何になるだろうか、いや何にもならない』っていう反語」
 説明を終えると同時にチャイムが鳴り、続々と生徒達は生き返る。
「メモ取ってない奴は次回までに見せてもらって、あと辞書忘れないように」
 日直の号令で挨拶をして授業が終わると、さっきまでの沈黙が嘘のように皆元気になる。見慣れた光景だ。俺が教卓の向こう側で座っていた頃から、よくある光景だ。
 教室を出て国語科準備室に戻ると、運よく誰もいなかったので一息つくことができた。眠る為ではなく、辺りを見ないで済むように机に伏して、『逢ふことも涙に浮かぶわが身には死なぬ薬も何にかはせむ』という呪いの歌を反芻しながら目を瞑った。

 
 娘や生徒達と同じ歳の頃、かぐやとある約束をした。
「死にたいって思ったことあるでしょ?」
 かぐやは言った。
「誰でも一度はそれくらいあるでしょ。でも、本気で自分以外の誰かを殺したいって思うことはそんなにないと思うんだよね。ま、私はあるけど」
 かぐやがそう平気で言えるようになったことが嬉しいようで、しかし俺の胸は強く締め付けられた。
「そう考えると、意外と人って自分より他人の方に死んでほしくないって気持ち強いと思うんだ。一部の人を除いて」
 かぐやは俺の方を向いた。
「竹本は私が死んだら悲しい?」
「うん」
「そっか。私も、竹本が死んだら嫌だな」
「うん」
「約束しようか。私が死ぬ時はあんたのこと殺すから、あんたが死ぬ時は私を殺す。そういう約束」
「うん。いいよ」
 俺が答えるとかぐやは笑った。
「よかった。怖いこと言うな、とか言われなくて」
 断る理由がなかった。自分はかぐやの為にいればいいと、もうずっと前から考えていたから。それに、何となくかぐやの真意は伝わっていたから、怖いとも思わなかった。
「じゃあ、約束ね。どっちかが死なない限り、どっちも死なないこと」
 そういう約束だった。でも、かぐやは俺との子を遺す為に死んだ。そうして約束は果たされないままになった。残された俺だけが、生きる理由と死ぬきっかけを失った。だから、きっと俺は死ぬこともなく、生きてもいないのだろう。今でも美月の顔を見る度に分からなくなる。俺はどちらを選ぶべきだったのか。なぜ、どちらもは選ばせて貰えなかったのか。
 そうして、神だか運命だか、いるのかあるのかよく分からない何かと自分の選択を呪いながら、俺の人生はもう一度終わった。

「娘の誕生日なので」と「妻の命日なので」のどちらが早く帰る為の口実として適切かを考えた結果、後者の方がやや断りづらそうであり、かつ気まずい空気が流れる可能性を考慮して、前者を副担任にぶつけて生徒を任せ、親バカのふりをした。
 夕日が沈みきる前には学校を出たから、もしかすると帰るのが早すぎたかもしれない。そう思っていると、案の定、駅から出たところでばったり美月と出会ってしまった。そういえば、一緒にいる所を友達に見られたくないのだった。
「あ」
 外はもう暗くなり始めていて、美月は片手にケーキの袋を下げていた。
「帰りに会ったら意味ないじゃん」
「いや、しょうがないじゃん……」
「先生ってこんな早く帰って来れるんだ」などと言われつつ、夕飯に何を食べるか話しながら家まで歩いた。

 夕飯のあと、美月が買ってきたチョコケーキを二つ出してきて、ロウソクをつけたり歌を歌ったりなどはせずにさっさとフォークを手に取った。
「めちゃくちゃ甘そうなのにしちゃった」
 実際食べてみると本当に甘かった。日頃から生活習慣に気を配ることのできない中年男性なら、何も吸収しない、時の止まったような不死の身体でもない限り控えた方がよさそうな甘さだった。そういえば、かぐやとはあまり甘い物を食べたことはなかったな、なんて考えていると、美月が唐突に切り出してきた。
「お父さんってさ、お母さんが死んだの自分のせいだと思ってる?」
 図星だった。
「なんで?」
「だって、お母さんが死んだのって、私のこと産んだ時でしょ?だから、自分と子ども作ったせいだと思ってるのかなって」
「ああ……まあ……子どもは一人ではできないからな……」
 我ながら情けないほど歯切れが悪かった。だが、俺達が選択をした理由そのものが問いかけてきているのだから仕方がない。
「じゃあ、私のせいでもあるじゃん」
「それは違う!俺達二人で決めたことが、結果としてそうなっただけなんだから、お前のせいなわけないだろ」
「じゃあ、お父さんのせいでもないね」
「……」
「詳しくは知らないけどさ、直接の原因が病気なら、それは病気のせいじゃん。その引き金を引いたのが出産だったっていうなら、お父さんもお母さんも私も直接関わってることになるから、誰か一人のせいってことはありえないでしょ」
 かぐやが覚悟の上で子どもを欲しがっていたことも、自分で言った通り、二人でそれを決めたのだから、何を責めても呪っても仕方がないのだということも分かっていた。
「……けど、それでも何かのせいにして、何かを悪者にして憎んだり悔んだりしないとやってられないこともあるんだよ」
 そして、明確に人を害している悪者だと思える人間が実際にいたとしても、それもまた、なぜかやるせないばかりだということも、俺たちはよく知っていた。
「言ったことなかったけど、お母さんは子供の頃、父親だった人に虐待されてたんだ。小学生の時には別れられたんだけど、しばらく喋れなくなったりして、学校でも男の教員に怯えながら過ごしてた」
 何事にも大して動揺しない美月が珍しく目を見開いて驚いているようだった。
「だから、そういう傷になった部分とか失くした時間とかを取り戻して余るくらいに、ずっと幸せに生きていって欲しかったのに、なんでそうなるんだって思うと、何か答えが欲しくなるんだ。不安なんだ。かぐやは俺を残して先に逝く為の手段としてそれを自ら選んだんじゃないかとか。やっぱり本当は、俺を呪ってるんじゃないかとか」
「……その答えは、お母さんが持ってるんじゃない?わかんないけど、お母さんが子ども欲しかったのと、お父さんを選んだのは絶対事実でしょ。私がいるんだから。そういうことにしよう。確かめるのは無理だけど」
 ひとつひとつ考えながら選びだす美月の言葉にどこか懐かしさを覚えた時、美月は言った。
「じゃあ、約束ね。どっちかのせいじゃないなら、どっちのせいでもないって考えること」
 その言葉だけで、全て無駄ではなかったのだとわかった。俺とかぐやを繋いでいたあの約束は、どこかで美月にも繋がっていた。そして新しく美月が結び直してくれた約束は、確かにかぐやが残してくれたものでもある。
 かぐやの16回目の命日は、甘ったるいチョコの香りといつまでも記憶に残る、美月の16回目の誕生日になった。

 

 朝、布団に包まったままスマホを見ると、まだ五時前だった。リビングから物音が聞こえて、昨日お父さんが早めに家を出るって約束したのを思い出した。私は寝間着のままリビングに行くと、お父さんが朝ごはんを作っていた。
「おはよう」
 そう言ったお父さんの顔がなんだかいつもとは違って、違和感があった。
「ん?」
 近づいてよく見ると、お父さんの顎に何かがたくさん付いていた。というか、生えていた。
「お父さん!髭生えてるよ!」
 そう言うと、お父さんは自分の顎を触りながらジョリジョリとおじさんの音を立てて、
「おお!すげえ!」
と、子どもみたいにはしゃいで鏡を見に行った。
 それから、お父さんは少しずつ、でも確実に普通の人よりも急速に老けていった。いつの間にか年相応のおじさんの見た目になって、ソファの角に足をぶつけたら痛がったりするようにもなった。それでも、壊れた二人の約束は今も、ちゃんと私達の心の中にある。

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