ドクとヨク #1
波もなく静かに広がる白い海、そこから立ち上る白い湯気、遠方には白い壁が聳える。白い世界の上空からは巨大な人の指が現れ、海面をなぞる。ラムスデン現象により発生した白い膜が指にまとわりつき、巨人を白い海へと引きずり込もうとする。
「あちっ」
僕はひとりで何をしているのだろう。
指についたホットミルクの膜を舐め取って、タオルで拭きながら深くため息をついた。こんな時に正気の岸まで引っ張り上げてくれる誰かがいてくれたら……そう思った瞬間に、部屋の向こうから女の子の声がした。
「ドク、牛乳なくなった」
彼女は部屋に入って来ると、PCの前で机に伏した僕の肩をちょんちょんと突いて、今度は訴えかけるように言った。
「ねえ、牛乳、なくなっちゃった」
この子の名前はヨクという。1ℓのパックも2日で空にしてしまうほど牛乳が好きだが、身長は123cmから少しも大きくならない。しかし、本人はただ好きで飲んでいるだけで、身長に関しては特に気にしていないらしい。
「これで最後」
顔を上げないままそう言った。
「これって?」
机の上にはさっきまで巨人ごっこの背景であったホットミルクがあるはずだった。
「これ、あれ?いや、ここに……」
「どしたの?」
マグカップはまるで洗いたての食器同様にピカピカで、牛乳など一滴たりとも入っていなかった。
「牛乳が、消えた」
ポカンと口を開けたままヨクと顔を見合わせた。一口もつけないまま空になったマグカップは、まだほんのりと温かかった。
なぜ牛乳が消えたのか。辺りに零れた様子もなく、マグカップの温度からもそこに入っていたことは間違いないが、この怪奇を前にいくら頭をひねってみても埒が明かない。謎はひとまず置いておき、なくなった分は買い足せばよいのだ。
「よくわからんから、とりあえず買いに行こう。上着持ってきな」
「うん」
僕は家の鍵をダウンジャケットのポケットに、財布を斜め掛け鞄に突っ込んで、暖房はつけたまま部屋を出た。
日が落ちてきて、一階は冷え込んでいた。玄関の電気を点け、靴を履いていると、どたどたとヨクが階段を下りて来た。白いダウンを着たヨクが僕の隣に座って、お気に入りの水色のスニーカーに足を突っ込んだ。彼女は扉を開けて駆けだしたかと思えば「寒い!」と言って、玄関の鍵をかけている僕の元へすぐに戻って来た。ヨクと手を繋いで一緒に道路へ出ると、僕はもう消えた牛乳のことなどすっかり気にしてはいなかった。
しかし、置いて来たはずの謎と怪奇は近所のスーパーでも僕たちを待ち構えていた。
食品売り場で紙パック飲料の棚を見ると、ぽっかりと何も置かれていない空間があり、辺りにフルーツジュースや飲むヨーグルトはあるのに牛乳がどこにも見当たらないのだ。にもかかわらず、僕たち以外の客は誰も驚き戸惑っている様子がなかった。それどころか、店員に聞いてさえ、ただ怪訝な顔をされて「ありませんけど」と言われるだけだった。
「誰も気にしてない……」
まるで世界が真っ白い別の次元へとすり替わって、何もない空間に自分だけが取り残されたような感覚だった。
「ドク」
繋いだ手の先を見ると、ヨクが僕の顔を覗き込んでいた。
「ど、どうした?」
「『牛乳』が、食べられてる」
「牛乳が、食べられてる……とは?」
「 がいるの。 に『牛乳』が食べられちゃったんだ」
「な、なに?何だって?」
ヨクの声はまるで編集された音声のように、一部分だけが切り取られたかのように聞こえなかった。
「 にはなにもないの。名前がなくて、音も匂いもしなくて、姿もなくて触れもしないけど、でも、どこかにはいるんだよ」
「いないのに、いる……?」
どうにも要領を得ないが、ヨクの言葉を聞いているうちに、そうした不可解な存在がいるらしいことをなぜか受け入れようとしている自分がいた。
「そんなのがいたとして、それと牛乳とどういう関係があるんだよ」
「名前だよ」
「名前?牛乳に名前なんか……」
「そうじゃなくて、『牛乳』っていう名前を食べてるの。それで、名前を食べられると と同じになっちゃうの」
「それってつまり、名前も無く、見えもせず、触れもせず、無いのと同じってこと?」
「うん」
僕たちは「存在しないもの」について話しながら、食品売り場を歩いて回った。並んでいる商品をよく見てみると、チーズやヨーグルトなどの乳製品が確認できた。
「今は牛乳それ自体が人に認識できないだけで、あるにはあるんだよな?」
「うん……けど、それってやっぱり無いのと一緒だよね……?」
物事の名前とはつまり言葉全般ともいえる。それを奪われるということは、人の認識そのものに干渉していることになる。物理的に牛乳という物が消失してしまったわけではないのなら、まだ何とかなるはずだ。
「人間にとっては無いのと一緒だけど、名前を取り返すことができれば全部元に戻るんじゃないのか?」
「わかんないけど、でも、早く取り戻さないと牛乳なくなっちゃうから、ドクなんとかして」
「しかし、相手はいるようでいないんだよな。それに、取り戻すって言ってもなあ、概念をどうやって取り戻せば……あ、いや……」
何者かから奪われたと聞いた時点で、その者から奪い返さなければならないと考えていたが、人間の認識に干渉しているのだとすれば、逆に人間の認識自体が従来の状態を「取り戻す」ことができれば、それが取り返したことになるのではないか。つまり、牛乳というものを想起する為の、奪われていない別の言葉があれば、それを起点に牛乳の存在をまた明確にできるはずだ。
「僕たちの知らない言語ならどうだ。捕食対象が僕たちの普段使っている日本語や英語なら、別の言語は無事に使えるんじゃないか?」
僕はスマホを取り出して、検索ツールを使って『牛乳』の翻訳語を探そうとしたが、「き」と入力したところで指が止まった。
「なんだっけ、あの白い飲み物……き、消えた!調べようがない!」
いくら思い出そうとしても言葉が出て来ない。検索ボックスには虚しく「き」の文字だけが取り残され、あやふやになっていく自分の記憶は引き留められないまま、なす術なく言葉を持っていかれることで徐々に精神がすり減っていく感覚がした。
「き、き、き……」
もはや僕に策は無く、ただ焦りと苛立ちと恐怖が脳内を駆け巡り、頭を掻きむしりながら、自分の中からその存在が薄れていくのをどうすることもできなかった。
「ドク……!」
その時、ヨクが僕を呼んだ。それは僕のニックネームだった。
ドクとは、「独」であり「毒」である。独りで延々と何の為にもならない駄文を生み出し続けては、意味もなく生きてこの世を蝕む害毒である。ヨクは当然その意味を知らない。しかし、その由来や込められた意味を知らずとも、指し示す対象の呼び名としては十分に役割を果たし、そして意味を成すものだ。
「そうだ。ヨク、新しく名前を付けるんだ」
「ヨクが付けるの?」
「うん。僕たちで新しい言葉を作ろう」
「でも、どうやったらいいかわかんない」
「適当でいい。というか、できるだけ適当な方がいい。あの白くて美味いやつ、あの飲み物になんかすっごいテキトーな名前を付けよう」
何か関連性や意味がある言葉を使えば、また奪われる可能性がある。僕は意味のない新しい言葉を作る自信がなかったので、ヨクに任せるしかなかった。
「うーん……」と数秒考えて、ヨクはすぐに口を開いた。
「ウピ!!」
「ウピ?」
「うん!ウピ!」
なぜかはわからない。むしろわからなくていいのだが、とにかく今日この瞬間から、あの白い飲み物を「ウピ」と呼ぶこととする。そうだ。紅茶やコーヒーに入れたり、学校給食の定番の飲み物として親しまれているので国民的なようだが、意外と嫌いな人もよくいるし、零すと乾いた後に臭くなるアレが「ウピ」だ。なんだか体に良いような気がして最近よく飲むホットウピ、ヨクの大好物でもあるウピ。
「ようし、ウピ買って帰ろうな、ヨク」
「うん。うち、ウピ無くなっちゃったもんね」
ウピをずっと頭の中に思い浮かべていると、不思議と以前からあれはウピだったような気がしてきた。
そのままウピについて強く念じながら飲み物売り場まで戻って来ると、紙パックの置かれた棚がきっちりと商品で埋まっていることに気付いた。
「ドク、やった!」
ヨクは歓喜しながら、取り戻したウピパックを重たそうに持って来た。
「ちゃんと『牛乳』って書いてあるよ!」
まさか、こんなにも早く成果に現れるとは思っていなかった。ヨクの言う「何か」から認識に干渉された人々がどの程度いたのか定かではなかったからだ。もしも、その「何か」の力によって、世界中の人々の認識から牛乳よりももっと重大な何かがするりと抜け落ちてしまったら……そう考えると末恐ろしくなった。
そんな僕を置いて、ヨクはせっせと自分で買い物かごを持ってきては重たいウピパックを入れて運ぼうとしていた。
「そんなに持てないだろ」
僕がそう言っても、うきうきのヨクの耳には届いていないようだった。
「帰ったらさ、ウピプリン作ろっ」
「まずはホットウピを飲み直そうぜ」
暗くなった帰り道、手にはずっしりと買い物袋がぶら下がり、もう片方の手は温め合いながら、家に着くまでウピの話は絶えなかった。
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