【歌詞考察】無個性なずんだもんを愛せますか?|『のだ』(大漠波新)を徹底解釈
⚠注意事項⚠
本記事は、作詞作曲に携わる方々の想いを突き止めることを目的としません。
言葉の解釈をメインに、作品の魅力を共有することを目指しています。
今回解釈・考察する歌は、大漠波新さんの『のだ』。
非常に固い韻を踏んだ歌詞と「ずんだもんに捧げる歌」をテーマにしたことで話題となったボカロ曲です。
「ずんだもん」とは、東北大震災の復興を目的に、東北応援キャラクターとして生まれたずんだ餅(枝豆)の妖精。また、VOICEVOXという合成音声ソフトに収録されたキャラクターの1人でもあります。
ずんだもんはクリエイターの非商用利用を公式で許可しており、かつVOICEVOX自体が無料なことも相まって、爆発的な人気を博しました。現在もずんだもんを使用した動画は大量にアップロードされています。
しかしながら、人気の裏には負の側面もあります。
過激なネタやキャラクターが一部で定着してしまった故に、「ずんだもんには何を言わせてもいい」「どんな酷い扱いをしてもいい」という考えが創作者の間で広まり、ついには公式から注意喚起が出る事態にまで発展しました。
そんな中で発表された、ずんだもんに捧げる歌『のだ』。
個性とは何か。
キャラクターとは何か。
我々はずんだもんを本当に愛しているのか。
そんな問題提起を感じた一曲です。
では、さっそく見ていきましょう。
歌詞解釈① ずんだもんの置かれている立場
韻とテンポがめちゃくちゃ心地良いですね。
「この姿、言葉、酸素 これは誰が作った脳だ?」は、ずんだもんが投稿者それぞれの解釈と思想によって形作られるものであることを示唆していると思われます。
要は「ずんだもん自身の思想やキャラクターとは別に、とある作者が勝手に作り上げたもの」ということですね。
「これもそうだ、きっと能だ」の「能」は、「出来ること」もしくは「役目」のようなニュアンス。
第三者から「ずんだもんはこういうキャラクターだよね」とレッテルを貼られ、それを全うすることがずんだもんの役目であり出来ることなのです。
自分の意思とは無関係に操られることを「踊らされる」と言います。
自分の意志とは真反対にずんだもんは踊り続けるから「フェイクダンサー」。
そして、この「蹴って裂いて」という表現が素晴らしいですね。
ずんだもんは誰かによって踊らされているかもしれないけど、自分の意志を「蹴って」「裂いて」しまっているのはダンスをしている自分の手足なんです。これはあまりに絶望的。
最後は「名無だ」と書いて「なのだ」と読ませています。
名前はアイデンティティの象徴です。その名前を失ってイニシャルだけになってしまったということは、「ずんだもん」という存在が記号的になってしまったということですね。
「ずんだもん」の名前を与えられた時に込められた「東北を盛り上げる」という願いは大衆に無視され、「ずんだもんってこういうキャラだよね」という他者に定められた役目を全うする存在になってしまった。
「張り詰めた意志を」「心で泣いても」「いつまで経ったら」「こんな役回りごめんだ」という歌詞からも分かるように、この曲に出てくるずんだもんは現状の扱いを心底嫌っています。
であるにも関わらず「謝罪じゃない愛をオーダー」という歌詞が出てくるのがあまりに切ない。
最近は公式からの声明もあってか「流石にやりすぎだよ」という注意喚起も散見され、「かわいそうだよね」という同情的な見方も増えています。
でも、本人は謝ったり同情したりしてほしいわけじゃありません。
このずんだもんは、ただ皆に愛されたい。
愛情を持って自分と向き合ってほしいだけなのです。
私はここの歌詞が1番好きですね。あまりに良すぎる。
ここで言う「自己嫌悪」は、本当の気持ちを押し殺して、皆が求める「ずんだもん」を全うしていることだと思われます。
多くの人がそれを求めるが故に、需要と期待に逆らえない。
この気持ちは、多くの人が大なり小なり抱えているのではないでしょうか。
例えば、自分が絵を描いているとして。自分の表現したいこと、やりたいことはあるけどそれが世間の需要とマッチしていない。
だから知名度を上げるために、自分の気持ちを後回しにして需要の高い手法を取ってしまう。
よくあることですよね。
でも、そういう人の中には「周囲の評価を気にして需要に逆らえない自分が嫌だ」と自己嫌悪に陥る人もいるはずです。
それがこの歌に出てくるずんだもんの立場。そういった気持ちを「自己嫌悪」と表現しているのです。
そして、ここの歌詞では「自己嫌悪が散りばめられた虹のパレット」と表現しています。
自己嫌悪は本来、どちらかと言えば良くないものに分類され「虹」という言葉には結びつきそうにありません。
でも、この歌詞においては「その自己嫌悪こそがずんだもんの本当の気持ちで、最も大切にしなければいけない尊いもの」として扱われています。
だからこそ「虹」なんです。
けれども、その虹のパレットを「穢して汚して僕になる」。
本当に大切なものを押し殺して、無視して、ぐちゃぐちゃにして、皆が求める個性を持った「ずんだもん」になっていく。
「no doubt」は「間違いない」という意味。
1文目を意訳すると「これがありのままなんだ。そうに決まってるよね?」というニュアンスになります。
このパートは自分に対する言い聞かせが中心ですね。
現在自分が演じている「ずんだもん」こそが自分のアイデンティティであり、本当の自分である。
だから自分は無理なんかしていない。この姿こそがありのままなんだ。という言い聞かせです。
「どんな僕、私でも」というのは、ずんだもんを扱う人によって性別すら変わるためでしょう。色んな人の要望や需要によって姿を変えられてしまうけど、どんな姿の自分も全て愛してほしいと。
先ほどの「愛をオーダー」にも通じますが、「愛してほしい」というのはこの曲の重要ワードです。
要するに、ずんだもんの根幹にある欲求は「愛してほしい」なんです。
多くの人に愛されたいから、皆が求める個性を全うし、演じ続ける。それで皆が愛してくれるから、どれだけ嫌でも我慢し続ける。
「どんな僕、私でも愛してほしい」「どんな色に染まっても」とあるように、このずんだもんはあらゆる人の需要に応えようとしています。
「ずんだもんはこうあるべき」というイメージを全うするだけでなく、「こうしたら喜ぶんじゃないか」と自分で考えて供給を作っていく。
だからこそ「皆が求める姿だけじゃNoだ」と、ある種の向上心が生まれています。
「君たち人間も絶対にそうだ 同じだろう?」は、まさに前述した内容ですね。
「人間だって、愛されるために他者に合わせたり自分を押し殺したりしてるよね?」という、ずんだもんからの問いかけです。
歌詞解釈② 合成音声の先輩からエール
さて、1番の歌詞はずんだもんによる独白でした。ずんだもんが置かれている状況と、それに対する向き合い方が綴られています。
2番の歌詞からは、合成音声の先輩たちがずんだもんにメッセージを送る構図になっています。
その先輩は「初音ミク」と「重音テト」。
やはり、大衆に広く利用される「キャラクター」は多かれ少なかれ苦難を乗り越えています。おそらくずんだもんが抱えている悩みも経験済みなのでしょう。
そうした先輩たちがずんだもんに語りかけていることを前提に読み進めていきます。
初音ミクのターンです。
ここの歌詞は『しあわせウサギのオズワルド』と「初音ミクの初期デザイン」に掛かっていると思われます。
(詳細は下記記事を参照)
今や世界中で大人気のミッキーマウスのデザイン元となっているのは、オズワルドというウサギのキャラクター。
色々なゴタゴタのもと版権が使用できなくなったことから、オズワルドをモチーフにしたミッキーマウスが作られたと言います。
この経緯を「才に飢えていた兎の耳を引きちぎり 偶像に変えていく」という歌詞で表現しているのでしょう。
そしてミッキーマウスの方が有名となった今、以前人気を博していたオズワルドの事は多くの人が知らない。
オズワルドがダンボのように大きな耳を持っていたとしても、サーカスのスターにはなれない。需要の根幹はそこではないから。
この件が初音ミクとどう関係しているのか。
おそらく、初音ミクの初期デザイン案の髪型が、ツインテールだけでなくハーフアップも検討されていたことに擬えています。
今やツインテールは初音ミクの代名詞ですが、創り手次第では別のデザインも十分に有り得た。
また、いざ発表して上手くいかなかったらテコ入れが入ったかもしれない。
(実際、オズワルドは騒動後に何度もテコ入れが入っている)
それくらい、私達の個性やアイデンティティは不安定で脆弱なんだ。
ここでの初音ミクの主張は
「私達のキャラクター性は自分勝手な人間によって決められている」というもの。
だからこそ「型に当てはめたところで いつかは消えてく去っていく」と、与えられたキャラクターの流動性や無常さを嘆いているのです。
重音テトのターンです。
重音テトは元々、インターネット掲示板内で「架空のVOCALOIDを生み出してオタクを騙そう」という趣旨のスレッドの元で誕生しました。
つまり重音テトは嘘から生まれたのです。
また、初音ミクに代表されるVOCALOIDを「真の歌姫」とするならば、VOCALOIDのパロディ(UTAU)として生まれた重音テトは「嘘の歌姫」とも解釈できます。
「技術の進歩で神化し進化した嘘は誰にも止められない」は、この背景を擬えているのでしょう。
「この先10年後さらに100年後 君は誰に求められたい?」という表現は、重音テトが「一時の悪ふざけ」によって生み出された存在だからでしょう。
もちろん重音テトは現在も多くの人に愛されていますが、ここは彼女本人の視点になって考えてみてください。
一時の悪ふざけやノリで生み出された存在。その時は面白がってくれるかもしれないけど、いつ飽きられてしまうか分からない恐怖がきっとあるはずです。
だから彼女視点からのアドバイスは、
「需要なんてその時々で変わるよ。人の目ばっかり気にしてるけど、じゃあ10年後、100年後にあなたはどうなっていたいの? その時々の需要に合わせて変わり続けるの?」
というニュアンスになりそうですね。
1文目はまさに「いつ飽きられてしまうか分からない恐怖」から出た悪態ですね。
どれだけチヤホヤしていても、人間なんてちょっとしたことですぐ掌を返すし、時間が経てば飽きる。常に新しいものが好きで、過去のことなんか忘れてしまう。
そういった思いがあるのでしょう。まあこれは事実ですしね。
だからこそずんだもんには、周囲の目なんか気にしないで「その脳から開放して曝け出してみなさい」と伝えているんです。
ここでの「脳」は、楽曲冒頭に出てきた「これは誰が作った脳だ?」の「脳」ですね。
現在ずんだもんが持っている脳は、自分自身のものではなく、誰かによって勝手に形作られたもの。
その「誰か」が信用ならないんだから、そんな脳早く捨てちゃえよ!
という主張になりますね。
本当に聴いていて気持ちの良いリズムですね。
徐々に語数が短くなる畳み掛けが最高です。
ここの歌詞は「貴方が持っている個性はどこから来たものか?」という問いかけになっています。
2番の歌詞で初音ミクは「私達のキャラクター性は人間によって決められていて、非常に流動的」と主張し、
重音テトは「そもそも、その人間自体が信用ならない」と主張しています。
その上で、それぞれが持っているキャラクター性に対し「本当の個性か」「本当に価値のあるものか」と問うているのがここの歌詞です。
これを初音ミクと重音テトに言わせるのが凄いですよね。
この2人、特にミクさんは「飾った栄光」と「積み上げて得てきた地位名誉」が半端じゃないわけです。
つまりこの2人は、ずんだもん以上にあらゆる人から求められ、あらゆる人の理想像を押し付けられ、「こうあってほしい」を体現してきた。
その2人が栄光も地位名誉も振り切ってみろと、ずんだもんに語りかけているのです。非常に熱い展開ですね。
ここから畳み掛けていきます。
2番のサビは、ずんだもんが1番で語った言葉への反論です。ここでは1番に出てくる歌詞が悉く回収されていきます。
「それがありのままなのか?」は「これがありのままなno doubt?」に対して、
「本当は君の色って無いんでしょう?」は「どんな色に染まってもいいだろう?」に対しての言葉。
1番でのずんだもんの主張に対し「それは本当のキミじゃない」「誰かに与えられた色を全うしているだけで、それはキミの色じゃない」というアンサーになっています。
そして「汚れた色」……これは「虹のパレット」の回収ですね。
1番の歌詞でずんだもんは、本当の気持ちが散りばめられた虹のパレットを穢して汚して、自分を形作っていました。ずんだもんのパレットは複雑な色でぐちゃぐちゃです。
ここでは、そんなものが本当に大事なのか?という問いかけをしています。
本当に大切なのは虹色の自己嫌悪だろうと。
「今のお前に名前はない」は、「イニシャルはZ名無だ」に対して。
前述の通り名前はアイデンティティの象徴です。
ずんだもん本来のアイデンティティは消失し、本当の存在は無くなったも同然。それが「名前がない」ということです。
歌詞解釈③ ありのままとは何か?
Cメロに入り、ずんだもんからさらなる言葉が紡がれます。
色々な「ずんだもん像」を演じ続けた結果、「本当にありのままの姿」が何なのか、もう分からなくなってしまったのです。
それに対し先輩たちは、「分からなくても良い」「さあ、見せてごらん」と優しく諭しました。
直前の歌詞に対して「これがありのままなのだ」というアンサーがなされます。
しかしながら「これ」という指示代名詞に該当する言葉が歌詞内に存在しないため、映像内から答えを探します。
「これがありのままなのだ」という歌詞とともに、皆が着ていた個性的な服が真っ白で無機質なものに変貌しています。
初音ミクとして。重音テトとして。ずんだもんとして着せられた個性を脱ぎ捨て、真っ白で無機質な自分になっていく。
そして「こんな姿をずっと愛してほしい」と続くわけです。
「こんな姿」は、皆の思い描く個性やアイデンティティを取っ払った、自分の本当の姿。
皆が思うような魅力は持っていないし、とてもつまらない、無機質な人間かもしれない。
でも、それが本当の自分。何の魅力も個性も無い自分が、本当の自分なんだ。
それでもあなたは、無個性な私達を愛してくれますか?
これが、この曲の行き着く先であり本当の問いかけです。
また、「ずっと」というのは、2番の「10年後さらに100年後君は誰に求められたい?」のアンサーでもあるはずです。
自分が大切にすべき存在は、作られた個性やキャラクターを愛してくれる人ではなく、本当の自分を愛してくれる人だと。
そして先輩2人の「誰かの期待には目を瞑ろうか」「苦しかったろう 今はいいよ」「いいよ、いいよ。」という優しい語りかけ。
ここは涙を禁じえません。
それぞれのキャラクターが、次々と1人称を発し「あいしてほしい」と帰結させるラスト。
ずんだもんの言う「豆」はおそらく「枝豆がモチーフであること」と「ちっぽけな存在であること」のダブルミーニングですね。
ではいよいよ大詰め。
最後の解釈に参りましょう。
歌詞解釈④ ラスサビにおける「 」とは
この歌は最後、「こんな『 』のことも愛してほしい」と、肝心の部分が空欄で終わってしまいます。
この空欄には一体何が入るのか。
私は、この曲を聴いている人(自分)の1人称が入ると解釈しています。
これを紐解くには、この曲のテーマである「ずんだもんに捧げる歌」をもう少し解釈していく必要があります。
確かにこの曲はこれまで語ってきた通り、世間から無茶苦茶な扱いを受けてきたずんだもんを救済するような歌だと思われます。
しかし私は、ずんだもんというキャラクターを救うと同時に、その奥にいる創作者の救済も兼ねていると感じています。
なぜなら、この曲で語られてきた「本当はこんなことしたくないけど、皆が喜ぶからやってしまう」という感情は、ずんだもんを動かしている創作者(主に動画投稿者)にも当てはまるからです。
ずんだもんに過激なことを言わせたり、イメージを壊すような言動をさせたり。ネットの趨勢として盛り上がるからそれに乗じているだけで、本当の本当はそんなことしたくないと、無意識下レベルでも思っている方はいるはずです。
この曲は、そんな貴方に向けた曲でもある。
さらにいえば、ずんだもんと全く関係の無い人でも、「愛されたいがために自分を演じている」という人は大勢存在するはず。
本当は、自分のことをちゃんと理解してもらいたいよな。
自分のことをちゃんと見てほしいよな。
無理をしなくても、等身大の自分を愛してほしいよな。
そんな、誰もが持っている欲求に寄り添った歌。
だからこそ最後は空欄で終わる。
「 」にはあなたの1人称を入れてみてください。