究極に「普通」な鬱漫画『ちーちゃんはちょっと足りない』を語る
鬱漫画、好きですか。
私は大好きです。
というわけで今回語るのは、阿部共実さんの
『ちーちゃんはちょっと足りない』を語ります。
鬱漫画といえば胸糞展開、グロ描写、理不尽な暴力など、凄惨な表現が多いものですが、この作品にそういった描写はほぼありません。
おそらくどこかに存在するであろう学校生活を描いたものです。
それでもファンから根強い人気と支持を受ける本作。
私が読んだ上で感じた魅力を語りたいと思います。
サムネイル引用:『ちーちゃんはちょっと足りない』(阿部共実|秋田書店)
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誰にでも当てはまる「普通」な主人公像
まずは、この作品のあらすじを簡単に紹介します。
舞台はとある中学校で主要人物は2年生。
主人公のナツは、穏やかそうで常識人のような雰囲気を纏っている女の子。ただ、学力などのあらゆるスペックが平均より少し下で、優しいというよりは自己主張が弱いといった性格です。
そんなナツには仲良しの友達が2人います。
1人は旭。家がお金持ちで将来は医者を目指している秀才。竹を割ったような性格で周囲から誤解されることもありますが、根は正義感が強く情に厚い女の子です。サッカー部の先輩と付き合っており、周囲から羨ましがられることもしばしば。
もう1人は千恵。タイトルにある「ちーちゃん」は彼女のことで、ナツは千恵のことをこう呼んでいます。
学力はナツよりも低く、経済的に苦しい家庭の生まれ。また、作品内で明言こそされませんが、千恵は軽度の発達障害を抱えていると推測されます。
中学生でありながら割り算が出来なかったり、性格や言動に著しい幼児性が見られるためです。
しかしながら素直で明るい性格と愛らしいキャラクター性で、周囲からは保護者のような目線で可愛がられています。
そんな3人の学校生活が描かれているのが本作品。
ここで特筆すべきは、主人公ナツの人物像です。
私が思うに、ナツは究極に普通な女の子。
テストは平均点を超えないけど赤点も取らない。
貧困家庭とまでは言えないけど少し貧乏。
特技や熱中できること、人生を捧げられるようなことは特にない。
自己主張は苦手だけど、仲の良い人とは普通に話せる。
恋人はいない。
そんな、色んなものがちょっと足りない、普通すぎる女の子。
だからこそ多くの読者から共感を呼んでいるのだと思います。
ナツは物語が進むにつれて、周囲の人間と自分を比較しはじめます。
誰かは頭が良かったり。
誰かは人望に厚かったり。
誰かは恋人がいたり。
誰かはお金を持っていたり。
誰かは教養があったり。
そういった「持っている人」と自分を比較して、「自分には何もない」「自分という存在は何なんだろう」と感じるところから、物語は進展していきます。
本作が鬱漫画として成立する理由
そんな普通な女の子ナツの日常が、どうして鬱漫画として成立するのか。
それは、ありふれたバックボーンを持つ主人公が、思春期特有の自意識と認知バイアス(誤った思い込み)によって崩壊していくためです。
思春期特有の自意識……これは「自分の世界が世界の全て」であるという視野狭窄から来る、被害者意識や誇大妄想です。
「どうして自分だけ」
「あの子はこんなに恵まれている」
「自分にだけ何もない」といった認知の歪み。
大人でも十分にあり得る思考ですが、思春期は特にこういった思考に陥りがち。それは人生経験の浅さから、学校や家庭といった特定の社会を過剰に意識するためです。
つまり、この歪みによって生み出される自己嫌悪や他者批判は「多くの人が発生し得る思考」だと言うこと。
この漫画は「誰にでも当てはまる人間的欠落を客観的に見せてくれる」のが素晴らしいと私は思います。
ナツを悪者や異常者として描かず、認知が歪んでいく思考を段階的かつ自然に描くことで、「自分もこういう思考になる」という読者の共感を生める。
そして、その共感を生んだ状態で、ナツの思考はどんどん歪んで堕ちていく。
これが、本作が鬱漫画として成立する理由です。
物語の中でナツはとある悪事を働きます。
その悪事を含めた言動や思考はとても褒められたものじゃないのに、どうしても彼女を完全否定できない。
だって自分もそうだったから。こうなる気持ちもちょっと分かってしまうから。
でも共感してしまったら最後、自分自身がクズであることも自覚しなければならない。非常に素晴らしい構造です。
1番大切なものを持っている千恵
千恵は客観的に見て、作中で多くのものを「持っていない」人物ですが、決して不幸な人物ではありません。
それは、千恵が2つの特性を持っているからです。
1つ目は、持っているものを大切にしていること。
千恵は自身の現状に不満や不足を感じてはいますが、だからといって今持っているモノが大切でないわけではありません。
昔に買ってもらった人生ゲームをずっと楽しんで遊んでいたり、ガチャガチャで出た髪飾りと取られて泣きじゃくったり、買ってもらった靴を誇らしげに自慢したり。
この点で言うと、ナツは明らかに対照的に描かれています。
昔買ってもらったお土産を千恵にあげたり、苦労して手に入れたリボンを簡単に捨てたり。
そして189ページ。ここ、ナツの周りに沢山モノがあるんですよね。でも、これらは粗雑に散らかっていて、ナツは大切にしていない。
そして2つ目は、素直であること。この点もナツとは対照的です。
千恵が箸の持ち方を間違えて、ナツがそれを指摘した後に「ナツも微妙に間違っている」と指摘されるシーンがあります。
その後ナツは「自分には教養すらない」と絶望して黙り込むのですが、千恵は「持ち方教えて」と周囲に教えを乞います。
分からなかったら「教えて」と言える。
嬉しかったら「ありがとう」と言える。
反省したら「ごめんなさい」と言える。
大人になると痛感するのですが、人生においてこれほど大切なことはありません。素直であることと周りに愛されることは、人生における大きな武器であり才能です。
だから千恵は人や運に恵まれる。「千の恵み」を得ているんです。
また、千恵は遅れながらも少しずつ前に進もうとしています。
クラスの委員長に勉強を教えてもらい、少しずつテストの点が良くなったり、1人で遠出が出来るようになったり。
対してナツは現状に不満を抱いたり、自身の不甲斐なさを自覚していたりするにも関わらず、現状を変えることを恐れて、逃げて、怠る。
この点も千恵と対照的に描かれている部分です。
「ちーちゃんはちょっと足りない」の解釈
最後にタイトルの解釈を。私の解釈は2通りあります。
1つ目は「ちょっと」という表現に注目した解釈。
千恵は本来「ちょっと足りない」と表現するには、似つかわしくないほどの欠落が存在します。
しかしながら先述の通り千恵は「本当に大切なもの」を持っており、かつ持っているものを大切にしています。
これを差し引きしたら、千恵の足りないものなんて「ちょっと」しかないんです。
そして藤岡の「ちょっと足りなくたって、どうだって楽しんで生きていけるだろ」という台詞。
つまり、千恵の欠落は人生の幸不幸とは直接的に結びつかないということ。
千恵に足りない部分は「ちょっと」だし、「ちょっとの欠落」は決して人生を不幸にしない。
それが「ちーちゃんはちょっと足りない」というタイトルの意味かなと。千恵の欠落を「ちょっと」であると明言することで、人生における幸不幸の根幹を示しているように感じました。
そして2つ目。こちらは「ちーちゃん」という呼称に注目した解釈です。
千恵のキャラクターに似つかわしい呼称なので忘れがちですが、作中で千恵を「ちーちゃん」と呼ぶのはごく限られた人物だけ。
その1人がナツです。
つまりこのタイトルは、ナツ目線で発せられた言葉である可能性が極めて高い。
ナツは作中で自分と千恵を「足りない側の人間」として一括りにした発言をしていますが、内心(無意識下)では「自分よりも千恵の方が足りていない」と見下すことで安心感を得ているのです。
本質から目を逸らし続け、何も成長することが出来ないナツを的確に表したタイトルと言えます。
以上になります。
阿部共実さんと言えば『空が灰色だから』も有名ですね。
これはタイトルからもう素晴らしくって……
いえ、この話はまた今度。
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