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【第1話:出会いと“角の世界”】

穂坂万智(ほさか・まち)は、新卒で介護施設「ひばりの里」に就職した。
資格は音楽療法士と、介護初任者研修を修了したばかり。

大学時代に音楽療法を学びつつ、ボランティアで高齢者の音楽活動に参加していたが、いざ就職となると「音楽療法だけでフルタイム勤務は難しい」と言われ、同時に介護士の仕事も任されることになった。

4月。まだ肌寒い風が吹く朝、マチはそわそわした気持ちで施設の玄関をくぐる。
スタッフルームの横にあるタイムカードの機械に、自分のカードを差し込むと、
 「ピッ」
という電子音が鳴った。
(なんだろう、この音。ちょっとだけ胸がざわざわする)
初めての職場、社会人1年目。期待と不安が混じり合って、妙に落ち着かない。
 
事務所では、先輩介護士の潮田(しおた)が新入職員を集めて、簡単なオリエンテーションをしていた。
「おはようございます。あなたが音楽の穂坂さん? 今日からよろしくね。
みんな“マチちゃん”ってきっと呼ぶと思うけど大丈夫?」
「はい。あ、よろしくお願いします!」

マチは軽く会釈しながらも、緊張で笑顔がぎこちない。
「じゃあ、午前中はフロアーの食堂へ行きまーす!」
「音楽の先生ってことで、早速だけどキーボード弾ける? みんなに挨拶がてら一曲弾いてもらおうかなあ・・・どう?」
「はい、弾けます。あの……何か好きな曲とかありますか?簡単な曲だと嬉しいです!」
「うちの利用者さん、昭和の歌謡曲とか童謡が好きな人が多いかな。簡単な童謡をサッと弾いてあげると喜ぶよ。」
 
そんなやり取りを経て、マチはさっそく食堂へ向かった。
施設内の廊下は明るい照明に照らされ、壁際には手すりが取り付けられている。
食堂のドアを開けると、すでに何人かの利用者が卓上の湯のみ茶を啜りながら、ぼんやりテレビを見ていた。
 
「おはようございます。今日からここで働きます、穂坂です。音楽療法士と介護士の見習いとして、ちょっと歌や演奏を一緒に楽しめたら嬉しいです」声が上ずりそうになるのを必死にこらえながら、キーボードのスイッチを入れる。

マチは大学時代の実習でよく演奏していた  「故郷(ふるさと)」  の伴奏をゆっくりと始めた。
すると、テレビを眺めていた利用者が少しずつこちらに視線を向け始める。
 「あら、ピアノが聞こえるわね」
 「懐かしいねえ忘れ難きか〜」
数人が口ずさむ声も聞こえてきた。嬉しさと安堵で、マチの肩の力が少しだけ抜ける。
(やっぱり、音楽ってすごい。こうして反応してもらえると嬉しいな)

そう思ったとき、食堂の隅にある席に目が留まった。
そこには、おそらく80代半ばくらいの男性が座っている。
姿勢を正したまま、まるで植物みたいに微かに揺れる時があるも、こちらを見向きもしない。
少し怖いお爺さんって感じだ。
 
「田島さん、今日から来てくれたマチちゃんの演奏どうでした?」
潮田が話しかける。
しかし、その男性 田島五郎 はかすかに眉を動かしただけだった。

(音楽、届いているのかな……)
 不思議と気になる。
 曲を弾き終えると、他の利用者がぽつぽつ拍手をしてくれたが、田島さんの反応は無かった。

マチは帰り際、ふとあの席をもう一度振り返る。
田島さんは最後までこちらを見ず、ただそこに存在していた。
(あの“隅”だけ、空気が違うみたい。まるであそこだけ“世界”が閉じこもってるような……)

そう思ってから、マチは心の中で勝手にあの場所を
角の世界」 と呼び始めることになる。

タイムカードを押して退勤しようとするとき、朝の時とは違う気持ちが胸に広がっていた。
「……もっと、あの人に音を届けてみたい」
社会人1日目からそんな思いが芽生える。
マチはまだ知らない。その気持ちが、自分にとってどんな大きな意味をもたらすのかを。

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