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【第4話:空席】

田島さんの入院が決まり、マチはどこか静かな日々を過ごしていた。
食堂に入っても、利用者の明るい声に混じって、いつも“角の世界”にいたはずの彼の姿が見えない。
ぽっかり空いた椅子だけが、そこに残っている。
 「田島さん、いつ戻ってくるんだろう……」
思わず口にすると、潮田が首をかしげる。
 「骨折した上に、ちょっと肺炎の疑いもあるって聞いたから、しばらくは戻って来られないかもしれないね。ご家族さんがどう判断するかにもよるけど……」
 
なんだか 消えてしまった ような気持ちになる。
 
利用者やスタッフたちは、いつも通りの日常を送っている。笑い声やテレビの音、連絡事項をやりとりする声。
でも、マチの視線は無意識にあの空席へ行ってしまう。
 
ある日、マチは昼休みにナースステーションを訪ねる。そこには看護師の大谷と話をしている家族の姿があった。どうやら田島さんの娘さんのようだ。
マチは遠慮がちに挨拶する。
 「穂坂と申します。田島さんがいつもお世話になっていました。今は骨折で入院と聞いて……」
娘さんは、少し憔悴した表情でうなずく。
 「父は……あまり長くないかもしれない、と病院の先生にも言われました。足の骨折だけじゃなくて、体力も落ちていて……」
その言葉を聞いて、マチの胸はひどく締めつけられる。
 「あの……もし、退院されてまたこちらに戻られるようでしたら、何か私にできることがあれば、ぜひ教えてほしいんです。私、音楽療法士として働いているんですが……」

すると娘さんはゆっくりと話し、思い出しているようだった。
 「父は昔、レコードを集めるのが趣味でした。ジャズとか昭和の歌謡曲とか、いろいろ……。私が子どもの頃は、父が休日にレコードをかけて家中に音楽が流れていたのをよく覚えてます」
 「やっぱり、そうなんですね……」

マチは思わず身を乗り出す。
 「もし可能だったら、そのレコードのタイトルとか、好きそうな曲がわかるものがあれば教えていただきたいです。これから先、私が演奏できるかもしれませんので……」

娘さんは少し考え込んでから、
 「具体的な曲名はよくわからないんです。家にあるレコードを見てみますね」
と提案してくれた。
 「もちろんです。施設にレコードプレーヤーはないですけど、タイトルが分かれば同じ曲を探せるかもしれません。配信サービスとか、私のキーボードでも代わりに演奏できると思うんで」

娘さんは小さく微笑んだ。
 「父がここに戻ってこられたら、ぜひお願いします……」
しかし、その笑顔はどこか苦しそうだった。
 
マチは田島さんの退院を待ち望みながら、利用者たちと音楽の時間を楽しんだり、介護業務に追われたりする生活を続けていた。
しかし、何週間たっても、彼は戻ってこない。
仲良くなった佐藤や、他のスタッフと一緒に仕事しながらも、心のどこかで空席が薄くなる。

そんなある日の夕方、マチがタイムカードを押しに行こうとすると、事務所から潮田が急いだ様子でやってくる。
 「マチちゃん、聞いて。田島さん、急に転院が決まって、うちの施設に戻ってくるんだって」
 「本当ですか!?」
複雑なマチの心だったが、次の潮田の言葉で表情が曇る。
 「ただ、看取り対応になるって。詳しくは看護師の大谷さんに聞いて。もう……そんなに長くないかもしれないって……」
 「……看取り、ですか」
手のひらが冷たくなる。
 (戻ってきてくれるのは嬉しい。でも、もうそんな状態だなんて……私、まだ何もできていないのに……)
誰もいなくなった食堂の隅に、相変わらず椅子が置かれている。
明日から、あそこに田島さんが“座る”のか、それとも“寝たきり”のまま過ごすのか。

どちらにしても、もう昔のように頑固に背筋を伸ばす田島さんには戻れないのだろう。

マチはその椅子を見つめながら、何とも言えない痛みを感じた。

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