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【第2話:音楽療法士と介護士のはざまで】

入職し何週間が過ぎる。マチは音楽療法士の立場で、週に数回は食堂で演奏や歌唱指導を行うようになった。

しかし、他の日には介護士としての業務
オムツ交換やトイレ介助、配膳、清掃、記録といった雑多な仕事に追われている。
「ふー、こんなに動き回るというか歩いている仕事だったんだな……」
どちらかというと運動が苦手なマチにとっては、重労働に感じられる瞬間もしばしば。

「マチちゃーん、こっちの利用者さんトイレ誘導お願い!」
ベテランの潮田が声をかける。
 「はーい、わかりました!」
バタバタと動き回っているうちに、あっという間に夜勤スタッフとの交代時間が来る。
 「一日が終わっちゃった……」
介護士シフトの日は、ほとんど音楽に触れることもなく過ぎてしまう。
ふと、田島さんの姿が頭をよぎる。食堂の隅でじっとしていたあの背中。
 (今日は結局、挨拶すらできなかったな……)

翌日、今度は音楽療法士のシフト。午前中から食堂で演奏を行う。
マチは「東京のバスガール」「リンゴの唄」といった昭和歌謡を何曲か用意してみた。
大学ではあまり弾いたことのない曲ばかりだが、ネットでコード譜を探して練習し、ある程度は形にしてきたのだ。
利用者たちは「懐かしいわねえ」「若い頃によく口ずさんだわ」と笑顔を見せる。
だが、視線を“角の世界”に向けると、田島さんは相変わらず微動だにしない。
 (歌謡曲が好きって聞いたけど、ダメなのかな……)

そう思っていると、手が空いた潮田がこっそり耳打ちしてくれた。
 「実は田島さん、家ではレコードを聴いてたみたいよ。昔のジャズとか昭和歌謡とか。だけど、こだわりが強くて、『自分の好きな曲じゃないと聴かない』タイプだったみたい」
 「好きな曲じゃないと、聴かない……」

マチは考え込む。自分が選んだ曲、実は田島さんの“本当に好きなもの”じゃないのかもしれない。
それでも、どんな曲が好きなのか、本人に直接聞けないまま日々が過ぎていく。
 (聞いても無視されそう……ちょっと怖いな)
そんな臆病な気持ちが、マチの行動を止めていた。

一方、マチは日常の介護業務を通して、ほかの職員とも仲良くなっていく。
中でも、茶髪で若干チャラい印象の佐藤は、意外と頼りになる存在だった。
 「お、まっちゃん(この人だけこう呼ぶ)、オムツ交換苦手そうだね。手が足りなかったら呼んでよ」
 「ありがとうございます。でも、なんとか頑張ります」
 「無理すんなって。俺、最初はオムツ交換で地味に腰やられたからさ」
そんな軽口を叩きながらも、利用者の転倒には素早く気づいたり、急変時に看護師を呼んだりと、仕事ぶりは手堅い。
夕方になると、ようやく一息つける時間がくる。
 「ふぅ……」
食堂の椅子に腰かけて記録を書きながらマチは思い返す。
 (角の世界……田島さんは、あの場所で何を思っているんだろう? 本当に何も感じていないわけじゃないはず)

その日も、マチは田島さんに特別声をかけることはなかった。
  「好きな曲ありますか?」 と尋ねる一言すら飲み込んでしまう。
 「いつか、ちゃんと伝えよう――」
そう心に決めても、なかなか踏み出せない。
施設を出るとき、タイムカードを押す音がやけに冷たく響いた。
 「ピッ」
 (こんなんじゃ、だめだよね……)
マチはもやもやした気持ちを抱えたまま、自宅への道をとぼとぼ歩いていった。

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