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【第5話:帰還と音の探求】

田島五郎さんが再び「ひばりの里」のベッドに横たわる姿を見たとき、マチは胸が締めつけられた。
ずっと “角の世界”  に座っていたあの人が、今はあまりにも痩せ細っている。
骨折と肺炎の影響で食事も思うようにとれず、点滴に頼る状態だった。
 「田島さん……戻ってこられたんですね。おかえりなさい」
そう声をかけても、彼は目をうっすら開けるだけで、言葉を返さない。

大谷看護師が言うには、本人の意識はある程度あるはずだが、声を出す体力も厳しいらしい。意思表示が難しい状態だ。
 「いつ状態が変わってもおかしくない状態です。看取り対応になるので、マチちゃんも心の準備というか、初めての看取りだよね?不安なことは相談してね」

看取り。
以前にも施設で亡くなる利用者を見送ったことはあるが、マチが関わる利用者さんでは初めてのケースだった。
 「私、何かできることは……」
か細い声で大谷に尋ねると、彼女は少し微笑む。
 「マチちゃんは音楽療法士なんでしょ? ご家族も音楽を流すことを希望されていたけど、だったら、最期までその人の好きな音楽を探したり、演奏してあげたりするのは十分意味があると思うよ」
 「はい……」
そこでマチは、娘さんとの約束を思い出した。

しばらくして、その娘さんが施設を訪ねてくれる。
紙袋には何枚かのレコードが入っていた。もともと父が聴いていた昭和歌謡やジャズ、クラシックも混じっている。
 「でも、これをかけるプレーヤーがないから……」と娘さんは困ったように言う。
「大丈夫ですよ。私、スマホの配信サービスで同じ曲を探して流してみます。それで、もし見つからなかったら、キーボードで代わりに演奏できるかも」
 
昭和歌謡や有名なジャズスタンダードは多くが配信されているが、田島さんは相変わらず目を閉じたまま、反応らしい反応はない。
ところが、クラシックの1枚。
古いショパンのレコードを見たとき、娘さんは言った。
 「これ、私が子どものとき、父が『たまにはこういうのもいいだろう』と言ってかけていたのを覚えてます。もしかしたら、思い入れがあったのかもしれません」

ショパンの曲を何曲か流してみる。
ノクターン、ワルツ、ポロネーズ……いずれも静かに部屋を満たす美しいピアノの旋律。
田島さんは微かに瞼を震わせているように見えた。
 「……もしかして、聴こえてる?」
マチはそっとベッドの柵に手をかける。
 (届いてるといいな。田島さんが好きだった音なら、少しでも心を揺らしてくれるかもしれない……)

マチは翌日、キーボードを病室に持ち込んでみた。
スマホのスピーカーだと音量が小さいし、何より自分で弾けば田島さんの表情を直接見ながら音を届けられる。
 選んだのは、ショパンの前奏曲 「雨だれ」 。
 大学時代に弾いたことのある曲で、左手が“雨音”のようにポツポツと音を刻み、右手は美しいメロディを奏でる。
 「……弾きますね」
そうつぶやき、鍵盤に指を置く。

ゆっくりとした和音が、田島さんの寝息のリズムを撫でるように響く。
高音が繊細に重なり合い、まるで静かな雨の風景が広がっていくかのよう。

田島さんは、目を閉じたまま。
マチは息を詰めるほど緊張してしまう。
 (どうか、届いてほしい。これがあなたの“好きな音”でありますように……)
曲の終盤、フレーズの終わりの主題に戻る時、ふと田島さんの呼吸がマチの演奏と同じリズムのような気がした。
偶然かもしれない。意識がないのかもしれない。
でも、マチはその一瞬に希望を見た。
 (息が合った……かもしれない)

曲が終わり、田島さんは寝たまま。
マチはしばらく動けなかった。胸がいっぱいで、何とも言えない感情が溢れそうになる。
同じ時間、同じ空間、同じ世界 一緒に感じている気がした。
 「ほんの少しでも、あなたの思い出に触れられたなら……」

マチは心の中でそうつぶやき、キーボードを抱えて部屋を出た。

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