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『ポリスノーツ(POLICENAUTS)』を振り返り、現実に絶望する。

人気ゲーム実況YouTuberの兄者氏、弟者氏、おついち氏が「ポリスノーツ」のゲーム実況を配信していたのを知った。「ポリスノーツ」は私の心の大事なところにあるゲームの1つ。令和の今の世でもなお、その輝きは失われてはいない。配信を見ながらいろいろと振り返ってみた。

内容に触れる前に

本編について語る前に一つ指摘しておきたい。「ポリスノーツ」の主人公、ジョナサン・イングラムについて。彼は物語中ではハードボイルドな魅力を持ちつつ熱い刑事魂を兼ね備えた魅力的な人物として描かれているのだが、行く先々で出会う"魅力的な"女性たちに対してナンパやセクハラを繰り返す人物であり、彼が出会う(主に若くて美人の)女性の乳に触ることで、は露骨な「乳揺れ」がゲーム内で描写されている。(ご丁寧なことに、特定のハード版では乳揺れ監修専門スタッフがついているし、専用ボイスも収録しているという力の入れようだ。)
開発当時は現在よりも「おおらかな」時代だったと言えるかもしれない。だがしかし改めて見るとジョナサンの行為はセクハラど真ん中であって笑って済まされるものではない。ましてやこのゲームはそういったエロを目的にしたゲームではない。一昔前なら「お茶目」と受け止められたかもしれないが、明確な性加害行為に対して好感は持てない。「ポリスノーツ」にはそのような描写がゲーム内に多数あることは、しっかりと認識してほしい。これは現在改善されつつある課題だと言えるが、まだまだ十分ではない。

何もかも失った男が

「ポリスノーツ」は喪失と再生の物語だ。ポリスノーツという警察権限を持った宇宙飛行士に選抜されたジョナサン・イングラムは船外活動中に宇宙服にトラブルが起き、宇宙空間へと投げ出されてしまう。そのまま25年間も宇宙空間を彷徨い、奇跡的に地球に帰ってきた彼を待っていたのは、自分だけが歳をとらず25年間で変わり果てた元妻、友人、環境、時代……。本人も「浦島太郎みたいだ」と言っているが、まさに世界にたった一人取り残された男なのだ。
何もかも失った男が、地球で探偵事務所を開いていたが、そこに元妻が探偵の依頼をしたことからもう一度彼の運命の歯車が動き出す。孤独に生きていたジョナサンが、友人の手を借りて今まで自分が逃げてきた過去と向き合い、もう一度自分の人生を歩みだしてゆく。
人は誰でも失敗をする。そして小さな失敗もあれば、大きな失敗もする。ずっと笑顔で元気に歩き続けることが出来ればいいが、躓いて倒れてしまうことだってある。もう起き上がれないと思うほどに倒れてしまった時、このままずっと倒れて居たいと思うかもしれない。だがそこからどのようにして這い上がり、立ち上がり、歩き出すか。まさにその立ち上がり方にその人らしさが描かれるのかもしれない。誰かが再起をする時、私たちは彼のことを強く応援したくなる。そしてその応援の気持ちは、現実に生きている自分自身にも伝えてあげるといいかもしれない。彼が立ち上がることで、私たちは勇気をもらえる。
「ポリスノーツ」はジョナサン・イングラムの立ち上がり方を丁寧に、しかし波乱万丈な物語として描いている。失踪事件の解明を進めてゆくうちに、彼の周りの人物のあらゆる姿が明らかになってゆく。
過酷な運命に翻弄されて本意ではない悪事に手を染めてきたクリスに対して「今のあんたはバイオモートとなにもかわらない。受け入れるだけじゃなく、自分から行動するんだ。生きるってのはそういうことだろう!?」と呼びかけているがそれはそのままジョナサンにも跳ね返ってくる。EMPS事故により25年間も宇宙を彷徨って希望も名声も失って地球で私立探偵として燻っていたジョナサンが、自分から行動し未来へ進んでゆく為の言葉を取り戻すことができた象徴的なシーンといえる。

失ったものたちと共に

自身の運命に向き合い、再び立ち上がるジョナサンだが、彼はたった一人で立ち上がった訳ではない。オールド.L.A.までジョナサンに夫の捜査を依頼したのは、ジョナサンと別れその後伴侶を持つも、ずっとジョナサンのことを忘れることが出来なかった元妻のロレインだった。ロサンゼルス市警からの付き合いがあるエド・ブラウンはジョナサンが宇宙を漂流している間、ジョナサンを失った失意に暮れて「風紀課」という掃きだめのような場所で周りに蔑んだ視線に耐えながら辛い人生を歩んでいたが、ジョナサンとの再会から自身の過去に向き合い動き出す。過去に囚われた人たちと関り、互いに自分たちの過去に向き合い未来に向かって行動してゆく物語は、何年経っても私たちの胸を打つ。

不当な権力に抗って

ジョナサンを悲惨な運命に巻き込んだ当人たちは、ジョナサンが宇宙を漂流している間に着実に権力を手に入れていた。ゲイツ・ベッカーとジョセフ・サダオキ・トクガワが共謀してジョナサンを宇宙へ漂流させた理由は、二人にとって彼とエドが邪魔な存在だったからだ。ゲイツは宇宙コロニーBEYOND内の警察組織BCPのトップとして、トクガワは自身の私企業のトップとして大きな力を持った。彼らは宇宙開発を進める中で生じる身体疾患に対応する内臓を補充する為、臓器移植に伴う人身売買と、麻薬の栽培及び流通を行っていた。「神は我々に宇宙へ出ていくだけの肉体を与えてはくれなかった」「だがわれわれの化学は人類の進化スピードを追い越してしまった」とゲイツはジョナサンに語り、自身の行為を正当化する。だがやっていることは生命倫理に反し、他人の命を道具として扱い、私腹を肥やし、自身の権力を強固なものにすることだ。
犯罪を憎み、不当な権力によって隠されている不都合な真実を求めることは社会に生きる人たちにとって当然のことであるのは自明のことだろう。(この意見に反対する「普通の」人間が果たしているのだろうか?)そしてポリスノーツに於いては、メディアが犯罪や不当な権力に対して抗っている。トクガワやゲイツによって苦しめられるジョナサンに対しても、カレン・北条を通して直接的な支援をしている。彼らは犯罪や悪を憎み、社会正義を求めて「自分の出来ること」をしっかりと追い求めている。ジョナサン達がゲイツとの戦いを終えた後には、それまで及び腰だった警察組織の仲間たちも一緒に立ち上がり、最後にトクガワを追い詰めた。この世界の人たちは、不当な権力に押しつぶされながらも、抗い、時には自分たちの脚で立ち上がりしっかりと正義を守ろうとしている。

ゲームよりも悲しい現実

自分の過去に向き合い、ポリスノーツとして戦い、大切なものを守ったジョナサンたちの姿は私たちの心に強く焼き付くし、彼らをヒーローのように感じる人も少なくないだろう。ジョナサン達の求めた正義は、私たちも共感できるところが多いはずだ。しかしながら、現実世界はどうだろう。
ジョナサン達は最終的に、敵となったゲイツに対して銃を向けて倒した。そこで明らかになった真実を知った警察(すなわち市民)が自分たちで立ち上がりトクガワを逮捕した。目の前にあった悪や不当な権力に対して、立ち向かった。これまで声を挙げてきたメディアの声に耳を傾け、自分自身の生活や社会に対して「こんな社会であってほしい」という思いがあったからこそ、彼らは立ち上がったのだ。
2022年の参議院選の街頭演説中に、安倍晋三元総理が銃撃されて死んだ。銃撃犯への取調べによって、安倍元総理を通じた自民党と旧統一教会との強烈な癒着関係や、国政・地方議会までに渡る政治と宗教の共犯関係が大々的に報じられた。苦しんでいる宗教2世の人たちも多くメディアに取り上げられ、政教分離の原則を守らずにのうのうとしている与党政治家の姿が次々と明らかになった。そしてそれら与党に繋がる問題は数知れず、汚職塗れの東京五輪、科学的根拠に基づかない検査体制も困窮世帯への補償もしなかったコロナ対策、原材料や日用品などこれまでに見ないほどの値上げが続く中で増税を続ける現政府など、政治がこの国に生きる市民すべてを苦しめているニュースが次々に飛び込んでくる。日に日に貧しくなり、息苦しくなってゆく社会の終わりは見えない。底が抜けたと表現するのが正しいのかもしれない。
ポリスノーツの世界と私たちの現実の違いはどこか?それは、権力者が(皮肉にも両方とも銃撃で)倒された後に「明らかになった不当な権力や、政治の不祥事に対して興味を持たずに、声を挙げない人たちがいる」ことだ。社会や政治という大きな枠組みに興味関心を持たず、「自分の手の届く範囲」という生活や個人的な趣味の世界に閉じこもっていることだ。これは個人主義とも孤独主義とも言い難い、強いて言えば「難しいことはどこかの誰かが勝手にやってくれるから、自分のことだけ考えて生きていればいい」という幼稚さや無力さと言っていいだろう。そうした無力さに絶望しているならまだしも、「偉い人には逆らっちゃいけない」「政治の話をするなんて、頭のおかしい人だ」という態度をとることが普通の良識的な態度だと信じて、胸を張って生きている人たちが多いのだから、もう絶望するしかないだろう。自分たちの生活・社会を支えてくれる仕組みがどのようなものなのか、そしてそれはどのように勝ち取ってきたのか、そういった自分以外の人たちに関心を寄せない生き方が、弱い者を苦しめ、さらには自分たちの生活や人生すら貧しくしていることに気付かないことは、どう表現すればいいのだろうか。

ゲーマーである以前に社会に生きる人であれ

ゲームは他の芸術作品と同じように心を揺さぶり感動させる力を持った作品が多い。私はそういったゲームをこれまで多く遊んできたし、ゲームを通して熱いヒューマンドラマや生きる希望を与えてくれる物語に触れてきた。そういった作品を生み出してきたクリエイター達に敬意を表したいし、そういうゲームを多くの人たちに是非とも遊んでほしいと心から願っている。
だがしかし、作品そのものが素晴らしかったとしても、プレイヤーの方にそれらの作品に込められたメッセージやテーマなどを読み取り、感じる力や心が無ければ、それらを受け取ることが出来ないだろうと私は考える。遊んだ、面白かった、感動した!だけで終わってしまうのが果たしてゲームにとって、私たちにとって良いことなのだろうかとも考える。
別の視点から考える。ゲームは私たちにとっては芸術であり娯楽だと言える。ビデオゲームを遊んでいても、お腹は満たされない。私たちの生活や人生を潤してくれるものではあるが、そもそも生活があってこその娯楽や芸術であるところは否定できない。だとすれば、政治や権力によって生活が脅かされているとすれば、私たちはまず生活や社会をしっかり安定させることが大好きなゲームを楽しめることに繋がるのではないだろうか。
VTuberだVRだといくら騒いでも、私たちは今生きている社会から自由になるわけではない。この社会と共に生きる私たちであるからこそ、そしてその社会を支える一員である「大人」である私たちだからこそ、私たちは今この社会や政治に対して興味関心を持ち、考えて生きてゆくことが大切なのではないだろうか。
ポリスノーツに登場するキャラクターたちに、恥じないような社会でありたい。彼らと共に笑い合えるような自分と社会でありたいと、そう思えることが、ポリスノーツをプレイした自分の考えだと、今はそう思い筆を置く。


*追記:3/19 本文中の一部表現を変更

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