「青山誠と学ぶ保育基礎講座ほいくきほんのき」に寄せて その1〜保育者の技について
春をまって新しい講座を始めます。
青山誠と学ぶ保育基礎講座ほいくきほんのき〜保育の読む、書く、見る、対話する
長いタイトルにすべて盛り込みました。
今回はこの企画に盛り込んだ思い、特に保育者の技について、あるいは保育者と保育の技、ということについて、考えてみたいと思います。
なんのジャンルでもそうだと思うのですが、
ある仕事なり、芸なりにおける技ということを、門外漢な人ほど軽視しすぎたり、反対に重視しすぎたりします。
身も蓋もない話ですが、保育者にだってやっぱりうまい保育者とそうでもない保育者がいます。
さてさっそく思い出して欲しいのですが、
こういう言葉にひっかかりすぎてはいけません。
保育にうまいもへたもない、とか、保育者の価値にうまいへたは関係ないとか、そもそもうまいってなんだよ、とか、一生懸命になってはいけない、
それは軽視しすぎ、重視しすぎ、なわけです。
実践者として実践の中で実践を通して、日々あれやこれや苦しんでいる人にとってはこんなことはあたりまえのことであり、
それほど騒ぎ立てることでもありません。
実践をおこなううえでは欠かせない、保育における手わざやコツはさまざまあります。たとえば、すこしの立ち位置の工夫、間のとりかたの長短。
声をやわらかく強く出すとか、重たい小さな声をだすとか、りんとした静かな声とか、声ひとつとっても実にさまざまな手わざやコツがあります。
保育者は日々それを磨いているといってもいいでしょう。あるいは実践を通してつねに調整している、といっていいでしょう。
保育における手わざやコツを「たんに手わざやコツでしょ」と言ってしまう保育者がいたとしたら、それはおそらく、
あまり実践を他者とともに協議、検討したことのない保育者か、
理念的なおしゃべりばかりしている保育者か、
その両方かでしょう。
はんたいに、手わざやコツをいつでも得意げに語る保育者がいたとしたら、それは「重視しすぎ」なほうです。
手わざやコツというのはあくまで手段であって、そのさきにその手段をつかってなしとげたいなにかがあるわけです。
手わざやコツを滔々と語る保育者は、
「その先になしとげたいなにか」がいつでも固まっている、
もっとひらたく言えば、
保育の像がすでに固まってしまっているということになります。
手わざやコツを軽視も、重視もしない。
それは保育者としていつでもしなやかであること、実践をとおして自分と保育を磨いていくこと、に通じていきます。
さて、次回はこの実践の技と同僚性のお話。